Ⅰ:「試み」と「誘惑」の違い
主イエスが弟子たちに教えられた祈りの言葉は、今日の「誘惑にあわせないでください」という言葉で終わっています。私たちが礼拝で祈る主の祈りは「我らを試みにあわせず・・・」という言葉ですが、先程読んだ聖書では「試み」が「誘惑」という言葉になっています。この箇所は原文では『ヘイラスモス』というギリシャ語ですが、この言葉には「試練、試み」と「誘惑」の両方の意味があります。
しかし日本語で「試み」と「誘惑」は、少し意味合いやニュアンスが変わります。たとえばヤコブの手紙1章には「試練」と「誘惑」という両方の言葉が出てきますが、ここでは同じギリシャ語を文脈によって訳し分けているのです。旧約でアブラハムに息子イサクを犠牲の生贄として捧げるようにと神が命じられたことを聖書は、「神はアブラハムを試された」と説明しています。あるいはイスラエルの民が四十年の間荒野を旅させられたのも、彼らが神の戒めに対して従うかどうかを「試すため」であったと申命記の中で語られています。ですから試み(試練)とは、その人の信仰が本物であるかどうかを試し、罪に汚れて神から離れてしまった人間を、神の子どもとして相応しく成長させるために天の父が与えてくださる訓練でもあるのです。しかし一方の「誘惑」は、むしろ私たちを神に対する信頼から引き離そうとする力です。そしてそれは神から来るものではありません。ヤコブが語っているように、神は私たちを罪に誘惑されるようなお方ではないからです。
「試練」が神から与えられる信仰の成長の機会であるとすれば、それを避けるように祈ることを主イエスが教えられるはずがありませんから、この祈りは、神から引き離そうとする「誘惑」を避けることが出来るようにという祈りであると理解することが出来ます。
Ⅱ:人を誘惑する悪はどこからくるのか?
そして、後半の「悪い者」は、私たちを神から引き離して別の方向へ向かわせようと誘惑する「悪の力」のことです。ではその「悪の力」の誘惑とは、具体的にどのようなものでしょうか。第一にそれは、私たちの内側に残る罪の法則からくる誘惑です(ローマ書8章)。それは今も私たちの内面に残り続けていて、私たちを神から引き離そうと誘惑するのです。
第二の誘惑は、私たちの外側(環境や状況)から来る誘惑です。宗教改革者ルターは、私たちが好ましくないと思う出来事(病気や結婚、家族関係の問題、仕事でのトラブル、非難攻撃)による罪への誘惑と、私たちにとって好ましい出来事(お金を得ること、出世すること、健康、幸運が舞い込んでくる)の両方からくる悪の誘惑を語っています。
そのように信仰の人生において私たちを神から遠ざけようとする誘惑は、自分自身からくる誘惑でもあり、自分の外側にいる他者からくる誘惑でもあります。そしてそれらの背後にいるサタンの恐ろしい力が、絶えず私たちに襲い掛かり、隙あらば陰府に引きずり込もうとして誘惑してくるのです。そしてもう一つ厄介なことは、私たちの人生に起こる問題は、それが神から来る「試練」なのか、悪から来る「誘惑」なのかを簡単に見分けることが出来ないということです。
Ⅲ:「弱さを委ねる」ことが本当の強さ
そしてだからこそ主イエスは、苦しみや問題に出遭う時に「これは試練ですか、誘惑ですか」と問うよりも、そのことを神に委ねて「私たちを誘惑にあわせず、悪から救い出してください」と祈りなさいと教えられるのです。この第五の祈りは、目の前の出来事が試練なのか誘惑なのか見分けることが出来ず、悪の誘惑に自分の力で対抗することができない私たちの弱さを、神のみ前に明け渡して「この弱い私を助けてください」と祈る祈りです。
しかしそのように、自分には出来ないという弱さを認めて、神の助けを素直に願うということは、簡単なようで実は難しい事ではないでしょうか。
主イエスが弟子たちに「サタンがあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言われた時、ペトロは「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しております」と答えました。「私は自分の力で主に従うことが出来ます」とペトロは豪語したのです。このペトロのように「わたしには出来る」と考える時に、それはすでに悪の誘惑の力が私たちの足元にまで忍び寄ってきている証拠です。しかしそのペトロに対して、主イエスは「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」と告げ、たとえペトロが三度イエスの名を否定しても、なお彼のために祈ると約束しておられます。
私たちは悪魔の力を決して過小評価してはなりません。私たちを誘惑する悪の力は、私たちの信仰心や正義感よりも強いのです。しかし同時に私たちは、悪魔の力を過大に評価する必要もありません。たとえ私たち自身は弱くとも、私たちの救い主であるキリストは、私たちを誘惑する悪魔よりも遥かに強い力で私たちを捕えていてくださるのです。そして悩み多い人生の中で、私たちの信仰がなくなってしまわないように、今もこの私のために天において祈り続けていてくださるのです。ですから、「自分は弱い」ということ、「自分の力では試練や誘惑に打ち勝つことが出来ない」という事を素直に認めて、神の助けを熱心祈り求めることが出来たのなら、その人は、その神の力強い助けを頂いてあらゆる誘惑や試練にも打ち勝つことが出来る、本当の意味で「強い人」なのです。
Ⅳ:主の祈りは救いの完成を願う祈り
主の祈りは、私たちの目の前の日常についての祈りであると共に、その世の終わりの永遠の祝福を見つめて、その救いの完成を願い求める祈りでもあります。私たちの主が「祈る時にはこう祈りなさい」と教えてくださった、主の祈りの持つ豊かな恵みを心にとめて、これからも主の祈りを心から祈ろうではありませんか。