2023年11月12日 朝の礼拝「沈んだ顔を捨てて」

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2023年11月12日 朝の礼拝「沈んだ顔を捨てて」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章16節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 6章16節~18節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:聖書における断食の意味
 6章前半では、施し、祈り、断食という宗教行為が取り上げられています。そしてそれぞれの働きについて「隠れたところにおられるあなたがたの天の神に見て頂きなさい」ということが繰り返されています。この中で「施し」や「祈り」については、現在の私たちの信仰生活にとっても、身近な宗教的行為であると言えます。しかし「断食」は、私たちにとって身近なテーマであるとは言えません。それでは、今日の断食についての教えは、私たちにはあまり関係のない話なのでしょうか。そもそも断食とは何のために行われるものなのでしょうか。
 イスラエルの王であったダビデは、自分の部下であるヘト人ウリヤの妻バト・シェバを見染めて、彼女と不倫関係になりました。そして彼女が自分の子どもを身ごもったことを知ると、謀略を用いてウリヤを戦死させて、バト・シェバを妻として迎え入れたのです。これはダビデ王が生涯に犯した最悪の罪とも言える出来事です。しかし神は、預言者ナタンを王のもとに遣わして、ダビデの犯した罪を暴き、その罪の報いとして生まれた子どもの命は必ず取り去られると告げられたのです。この時ダビデ王は、自らの過ちを認めて、悔い改めを示すために、夜を徹して断食を行い、神の憐れみを願い求めたのです。しかしダビデの断食も虚しく、生まれてきた子どもは七日目にこの世を去りました。するとダビデは、すぐに断食を止めて、身を洗って香油を塗り、衣服を着替えて、すっかり普段通りの姿に戻ってしまいます。その態度をいぶかしんだ家臣が尋ねると王は「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。」と答えています。

Ⅱ:本当の悔い改めを求める神
 この時の彼の行動は、断食という行為の持つ意味について、私たちに教えてくれています。断食とは第一に、神に対する罪の悔い改めを示し、憐みを乞うための行為です。そして、この時のダビデの断食が神にのみ向けられたものであったように、断食とは食を断つことで、神に思いを集中させるための手段です。主イエスは、断食と言う行為そのものを否定しておられるのではありません。それが神ではなく人に向けられる時に、その断食には意味がないということを教えておられるのです。ましてやそれが、周囲の人々の尊敬や称賛を得るための行為であるとすれば、それは正に偽善者の行為であると言わなければなりません。その偽善者の姿が具体的に描かれているのが、主イエスのたとえ話に登場するファリサイ派の姿です。
 彼は人々の間に立って、心の中で『・・・わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』と祈りました。ところが徴税人は、人々から離れた遠いところに立って、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈りました。主イエスは、「義とされて家に帰ったのは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではない。」と言われました。信仰生活において神が常に問われるのは、それが本当に神に対するまっすぐな信仰と、頂いた恵みに対する感謝と喜びから出たものであるかということです。神は、私たちが自分の罪を本当に心から罪を悔い改めて神に立ち帰ることを求めておられるのです。

Ⅲ:悔い改めることが出来る恵み
 主イエスは、「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と言われます。 それは人に弱みを見せないようにしなさいということではもちろんありません。真の悔い改めは、人の目を意識せずに、ただ神にのみ目を向けてなすべきであるということを教えておられるのです。しかし、人間の罪に対する神の激しい怒りと裁きの前に、私たちが立たければならないとすれば、どのようにして神の前で自分の罪を告白することが出来るでしょうか。私たちは神の前に出て悔い改めて憐みを求める資格すらない、罪深い者なのではないでしょうか。そしてその私たちの悔い改めは、結局どこまで行っても不完全な悔い改めでしかないのです。ダビデの断食は、人ではなく神に対して向けられた真剣な悔い改めでありましたが、しかしそれでも犯した罪に対する神の裁きを免れさせることは出来ませんでした。人間のどんなに熱心な断食も、罪の悔い改めの祈りも、神の裁きを逃れさせることは出来ないのです。
 神の御子であるイエス・キリストが、すでに私たちの罪を十字架で背負い、その裁きをその身に受けてくださっているから、私たちは神の前に出て罪を悔い改めることが出来るのです。この御方が、私と天の神との間に立ち、弁護してくださるので、私たちの不完全な悔い改めであっても、天の父なる神はその私たちの祈りを受け入れてくださるのです。私たちが神の前に罪を悔い改めることが出来るということは、キリストにあってそれ自体が、神から与えられている大きな恵みであり、喜びであるのです。神の前に罪の赦しを祈ることで、すべての罪を許していただけるということ、それはダビデを始めとする旧約の神の民には想像もできない様な、本当に驚くような恵みなのです。

Ⅳ:沈んだ顔をすてて
 もし主イエスが私たちと共にいて下さらないなら、私たちは自分の罪の重荷に絶望して、暗い沈んだ顔をしなければならないでしょう。しかし主イエスが共にいて下さるのなら、私たちはもう自らの罪に絶望して暗い顔をする必要はありません。そして主イエスは確かに私たちと共にいてくださるのです。ですから主イエスに罪赦されて、この場所に集められている私たちは、沈んだ暗い顔をしてここに座っている理由は何もありません。礼拝は、私たちがたとえ不完全ではあっても、神に心を向けて自らの罪を悔い改め、それに対する「御子イエスの血潮によってあなたの罪はすべて赦されている」という宣言を聞く場所なのです。私たちは今朝、この福音の宣言を聞き、沈んだ顔を捨てて、神の恵みに喜び感謝して生きるために、この恵みと喜びの場所に集められているのです。

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