2023年12月24日 朝の礼拝「神の栄光を見る日」

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2023年12月24日 朝の礼拝「神の栄光を見る日」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章14節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 1章14節~18節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:ヨハネのクリスマス物語?
 聖書には、イエス・キリストの生涯を記した福音書と呼ばれる書物が四つ納められていますが、私たちが知っている、いわゆる「クリスマス物語」は、おおよそルカとマタイ福音書に記されています。マルコ福音書では、キリストの誕生に纏わる出来事は何も触れられていません。そして最後のヨハネ福音書も、私たちがよく知るクリスマスの場面は出てきません。その代わりにヨハネは、非常に不思議で独特な仕方で、イエス・キリストの誕生という出来事を描いています。それが今日の14節から18節を含むヨハネ福音書1章の部分です。
 1章は「初めに言葉があった。言は神と共にあった。言は神であった」という一文から始まります。ヨハネはここで、言は世の初めから、神の天地創造の働きに共に関わって来られたと述べているのです。更に神の言は人格的な存在であり(2節)、それ自身が神であったと言われています。
 ではその「初めにあって、神と共にあり、またそれ自身も神であるという『言』」とは、一体何でしょうか。今日の14節以下の所で、それは神の独り子であるイエス・キリストのことであるということが明らかにされていきます。今日の聖書の御言葉の中には、天使も馬小屋も飼い葉おけも出てきませんが、しかしここで語られているのは紛れもなく、神の言が人となって私たちの世界に来て下さったというそのクリスマスの出来事なのです。

Ⅱ:言は神の心を明らかにする
 そもそも言とは一体なんでしょうか。言葉は、それを発言する人自身と同じ力と意志を持っています。神が『光、あれ。』と言えば、そこに光が生じるように、神の言は、神と同じ力を持ち、常に神と同じ意志を持って働くのです。ですから、神の言は、神の心そのものであると言う事が出来ます。私たちは神を目で見ることは出来ませんし、神の声を耳で聞くということも出来ません。もちろん神の心の内を知るということも出来ません。ただ神の言であるイエス・キリストが、人となってこの世界に来て下さったことによって、私たちは神とはどのような御方であるのか、その神の心は何かを、目で、耳で、体で体験して知ることが出来るようになったのです。それが神の言が肉となったということの、大きな意味です。

 それではその、人となった神の言によって明らかにされた、神の心とはどのようなものだったのでしょうか。その事が今日お読みした14節で明らかにされています。神の言が肉となって、この地上に来られたことによって、明らかにされた神の心は恵みと真理に満ちていたとこの福音書は証言しています。「恵み」は「憐れみ」あるいは「愛」という風に言い換えても良いでしょう。しかもその愛はまことの愛です。すなわち打算や下心のない、純粋な無償の愛、真実の愛です。そのような神の心、愛とまことに満ちた心が、肉となった神の言葉によって私たちに明らかにされたのです。この「肉」と言う言葉は、ヨハネ福音書では多くの場合、否定的な意味で用いられていて、1章で「世」とか「闇」と言われているのと殆ど同じ意味です。欲にまみれた人間と、その人間の欲が生み出す罪に満ち溢れた世界が「肉なる世界」「世の暗闇」です。

Ⅲ:キリストを通して見る神の栄光
 そういう神に背を向けた神無き世界において、私たちは一体どこに「神の栄光」を見出すことが出来るでしょうか。ヨハネ福音書の著者は言うのです。
『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。』
 この福音書ははっきりと、この世界のどこにも見出すことが出来ない神の栄光を、この人となられた神の言に私は見たと言います。すなわち、イエス・キリストというお方の中に恵みとまことに満ちた本当の希望の光を見出したと証しするのです。この「宿る」というギリシャ語は、元々は「幕屋を張る」という意味の言葉です。幕屋とは簡単に言えば人々が住むためのテントのことです。そして旧約聖書の出エジプト記では、幕屋は神を礼拝し、神と会見をするための神殿の役目も果たしていました。しかし幕屋に神が降りてこられて神の栄光が満ちると、それが余りにも眩しすぎるために、罪に汚れた人間はそこに近付くことが出来なかったのです。
 ところが、今日の箇所の肉となった神が宿られる幕屋は、そういう恐れ多くて近寄りがたい場所ではありません。それは、人となって私たちと同じ弱さを持ち、私たちと同じ苦しみの中を生きようとする、神の愛と誠実さとに満ちた栄光です。ですから福音書の著者は、私たちはこの神の言を通して、神の栄光を見ることが出来た(神を見ることが出来た)と証言するのです。

Ⅳ:神の栄光を見る日
 神の言であるイエスは、肉の欲と罪で汚れた私たちを、その泥の中から助け起こして、救い出すために、汚れた肉の世界に全身で飛び込んで下さってくださったのです。そしてこの悩みと苦しみと涙に満ちた地上の生涯を、私たちと同じように生き、私たちが味わう世の苦しみと試練を同じように経験して、そして最後に十字架でご自分の命を投げ出して下さったのです。私たちを罪と死から救い出すために、この神の言は世界に肉となって宿られて、私たちと共に生き、私たちのために死んでくださったのです。
 そしてここに神の意志、力、そして栄光がはっきりと表れています。私たちは二千年前のあのクリスマスの夜に、肉となって、人となって私たちの所に来て下さった神の言、イエス・キリストの十字架の生涯を通して、神がどれ程私たちを愛し、私たちを救いたいと願っておられるか、その神の心を知ることが出来るのです。クリスマスは正に、その神の言であるイエス・キリストの誕生という出来事を通して、私たちが恵みとまことに満ちた神の栄光を見ることが出来る日です。今朝、私たちはこの恵みの主、生ける神の言が私たちの元にお生まれになられたことを、心から喜び感謝して、共にこの恵みとまことに満ちた神の栄光を讃えようではではありませんか。

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