Ⅰ:地上の富と天の富
今日の所の最初の教えは「あなたがたは地上に富(宝、財宝、倉)を積んではならない」という教えです。聖書の時代の富は、金貨や銀貨のような貨幣、穀物や食料香料や布・衣類などがあります。衣類や穀物は虫や動物に食べられてしまう危険が、お金は泥棒や強盗によって盗まれる危険があります。ですから主イエスはご自分の弟子たちに、そういう地上の富を積むよりも「天に富を積みなさい」と教えておられます。
この「天に富を積む」という言葉を聞いて私たちがイメージするのは、この世のにおいて善い行い、親切な行いをすることで天に富を積む、というイメージなのではないでしょうか。確かにこの後のマタイ19章で主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と述べておられます。
しかしより大切なのは、その後に続く「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」という言葉です。私たちがこの地上において最も価値を見出しているものが、その人にとっての「富(宝)」なのです。私たちが自分に与えられている仕事や勉学を神から与えられた働きとして励み、その結果として得た良い収入や地位を神からの恵みとして感謝して受け取り、神の栄光を表わすために正しく管理して用いるなら、それは天の父なる神に喜ばれることなのです。しかしそれらが神から与えられていることを忘れて、富に天におられる神以上の価値を置くのなら、その時私たちの心は天にではなく、その地上の宝にあるということになるのです。
Ⅱ:「灯としての目」と「神と富」の教え
そして第二の教えは「体のともし火は目である」という教えです。日本語でも「目は心の窓」という表現がありますように、この聖書の言葉も“目が澄んでいて綺麗な人は、心も美しい正しい人で、反対に目が濁っている人は心も汚れている”と理解されやすいかも知れません。しかし、ここで「澄んでいる」と訳されている言葉は、「正常な(健全な)」という意味の他に、「一つの」とか「単純な」という意味があります。ですから「澄んだ健全な目」とは、視線がしっかりと一つのものに注がれていて、他のものに目移りしない目ということです。反対に「濁った悪い目」とは、あちらに、こちらにと視線が移ってしまって、焦点が定まらない目のことです。天にある宝に自分の目線をしっかりと定めて、この世の宝に目を奪われないでいることが、それがここで言う澄んだ目を持つということです。そしてそういう健全な目を持つことで、その人の全体が明るく健全なものになるのです。ですからこの教えもまた、本質的には「地上の富ではなく天の宝に私たちの心を置く」という教えと同じことを教えているのです。
そして最後の教えは、言わば今日お読みした箇所全体の『結論』にあたる部分です。「仕える」という言葉は「奴隷として仕える」という言葉です。パウロは教会に宛てた手紙の中で自分自身について、好んでこの「キリストの奴隷」という表現を使っています。そのパウロがローマの信徒への手紙6章で、人には神に仕えて生きるか、それとも神ならざる者に仕えて生きるか、そのどちらかの道しかないと述べています。今日の箇所で主イエスもまた「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」と述べています。「一方を憎む」という言葉は、相手を積極的にを憎むというだけでなく、別の相手に心を奪われて、もう一方の相手をないがしろにするという意味を含んでいます。そして24節で「富」と訳されている言葉は「マモン」という言葉です。これは(ユダヤ人の日常語であった)アラム語で、お金や財産を意味します。この言葉の語源の有力な説に、ヘブライ語の「信頼できるもの」から派生した言葉という説があります。私たちがこの地上において神以外の、神よりも信頼を置いているもの、頼りにしているもの、それが私たちにとっての「地上の富(マモン)」なのです。
Ⅲ:キリストが主となってくださる恵み
経済的な豊かさを頼りとして生きている人にとっては、「お金」や「財産」がその人のマモンであり、自分の能力や経験を頼りにしている人にとっては、自分自身が、家族や友人、恋人を頼りにしてい生きている人にとってはそれらの人々が、地上のマモンとなるのです。事実、イエス・キリストと出会うまでの私たちは、世の多くの人たちと同じように、この地上の神ならざるマモンに信頼して生きる者だったのではないでしょうか。その頃の私たちが信頼していた地上のマモンたち ―お金、財産、仕事、地位、才能、名誉、恋人、友人、家族― は、どれも私たちに“決して取り去られない本当の平安や喜び”を与えてはくれませんでした。
しかし今や私たちは、キリストと出会い、キリストの奴隷とされて、この世のあらゆるマモンから解放されて、本当の喜びや命を手に入れたのです。キリストを主と仰ぎ、キリストの奴隷とされた私たちは、たとえ一時的にこの世のものに誘惑されることがあるとしても、もはやこの世のマモンに私たち自身を支配されることはありません。なぜなら人は決して「二人の主人に仕えることは出来ない」からです。キリストが私たちの主となってくださったのですから、私たちは再び地上のマモンの奴隷に戻ることは決してないのです。私たちを見捨てることも、手放すことも決してなさらない神の御子が私たちの主となって下さるということ、そしてこの御方を信じる者に約束されている永遠の命こそが、永遠に失う事も奪われることもない天の宝なのです。そしてこのキリストを信じる信仰によって地上の生涯を生きるということが、天に宝を積むという生き方なのです。
Ⅳ.神は本当の価値を見ておられる
人は、目に見える地上の富をだけ見て、その人を評価し、その人の価値を判断しようとします。たくさんの財産を得て、様々な功績を残して、人々から称賛を受ける人生を歩んだ人を勝ち組と呼び、それと反対の人を負け組と呼ぶ。それが世の価値基準です。しかし私たちの天の父は、人間の目に見える地上の富で、人の価値を判断する御方ではありません。その人の本当の価値は、地上においてどれだけ成功したか、地上の富をどれだけ築いたかということによって決まるのではありません。たとえ人間の目には成功者として映らないとしても、その人の人生に辛く悲しい出来事があったとしても、その人が人生においてイエス・キリストと出会い、キリストによって罪の支配から救われて、キリストと共にその生涯を歩むことが出来たのなら、その人は神のみ前に本当に価値のある祝福された人生を生きた幸いな人なのです。
今朝ここにいる私たち一人一人も、天の父なる神が、ご自分の独り子の命と引き換えに罪の奴隷から救い出してくださった、そういう価値ある大切な存在として、今日も神のみ前に生かされているのです。