2023年11月26日 朝の礼拝「苦しみの中で神を知る」

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2023年11月26日 朝の礼拝「苦しみの中で神を知る」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 11章1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:1 主はモーセに言われた。「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。
11:2 あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい。」
11:3 主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。
11:4 モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。
11:5 そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。
11:6 大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。』
11:7 しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。
11:8 あなたの家臣はすべてわたしのもとに下って来て、『あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください』とひれ伏し頼むでしょう。その後で、わたしは出て行きます。」そして、モーセは憤然としてファラオのもとから退出した。
11:9 主はモーセに言われた。「ファラオは、あなたたちの言うことを聞かない。そのため、わたしはエジプトの国に大きな奇跡を行うようになる。」
11:10 モーセとアロンはファラオの前でこれらの奇跡をすべて行ったが、主がファラオの心をかたくなにされたため、ファラオはイスラエルの人々を国から去らせなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 11章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:第五~九の災い
 今日はエジプトに下された十の災いの中から、後半の第五~九の災いをご一緒に読んでいきたいと思います。エジプトに下された五番目の災いは、エジプト中の家畜を疫病が襲うという災いです。そして第六の災いは『腫れ物の災い』です。モーセがかまどの煤を両手いっぱいに持って、ファラオの前でそれを天に向かってまき散らすと、今度は家畜だけでなく、その灰が降りかかった人間にも膿のでる腫れ物が発生しました。しかしこれらの災いが起きてもなお、ファラオは神の言葉を聞き入れてイスラエルの民を去らせようとはしませんでした。
 そこで第七の災いとして「雹の災い」が起こります。この時エジプトを襲った雹は、神がモーセを通して『エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を降らせる』と御告げになったように、それまでに彼らが経験したことがなかったような大変激しいものでありました。そして雹と雷に打たれた多くの家畜と僕の命が失われることになりました。続く八番目の災いは、イナゴ(バッタ?)の災いです。このイナゴの災いは、それ以前の蛙やぶよ、あぶといった「昆虫や生き物が大量発生」した災いとは異なります。それはエジプト中の農作物がイナゴによって喰い尽くされて深刻な食糧危機が起こるという「飢餓」の災いである訳です。そして九番目の災いとして、三日間、エジプト全土が闇に覆われて、人々は互いの姿を見ることも、自分のいる場所から立ち上がることも出来なくなるという「暗闇の災い」が起こりました。

Ⅱ:エジプトのファラオと災い
 エジプトに下された十の災いを順番に見ていく時に、後半の災いになればなるほど被害の深刻度が増していき、少しずつ「死」に近づいていっているという事が出来るのではないでしょうか。そして神がエジプトに災いを下されるのは、そのことによって単にエジプト人を苦しめることや、イスラエルの民を奴隷から解放するということが目的ではありませんでした。これらの災いを通して、ご自分こそが全地を支配する神であるということを、全世界の民にしらせようとしておられるのです。この世界のあらゆる国と人々を支配しているのは、天におられる神ただお一人です。そのことを知ろうとせず、心を頑なにして自分が王であろうとすることが、人間が持っている根本的な罪の性質です。
 私たちの人生に起こる災いは、単なる災難ではなく、その罪の性質を打ち砕いて、「わたしのような神は、地上のどこにもいない」ことを知らせるために与えられた「神のしるし」なのです。神は、死の滅びが訪れる前に、人間がこの神のしるしを心に留めて、この世界を、自分の人生を本当に支配しておられる王は誰かということを知ることを望んでおられるのです。
 
Ⅲ:神の民にとっての災い
 それでは神の民イスラエルは、どのようにして神が全地の主であることを知るのでしょうか。それもまたファラオが心を頑なにすることによって引き起こされた十の災いを通してでした。ファラオの心が頑なになるということは、イスラエルの民にとっては、奴隷からの苦しみからの解放が実現せず、苦しみが続いていくということです。しかしそれもまた、それらの体験を通して、イスラエルの民が、全地の主が誰であるかということをしるために与えられた与えられた「神のしるし」であったのです。
 私たちは、キリスト者であっても、未信者であっても生きていれば様々な災難や試練に出会います。しかしたとえ同じ災いに出逢うとしても、私たちキリスト者は、全地を支配しておられる、全世界の主である真の神を知っています。エジプト中が暗闇に包まれる中で、しかしイスラエルの民のところには光があったように、神を知らない人にとっては、災いとしか捉えることの出来ない事の中に、私たち信仰者は光を見出すことが出来るのです。それが私たち信仰者に与えられている暗闇を照らす希望の光なのです。

 現実において、先の見えない暗闇の中でなお、神がその試練をご支配しておられると信じて、希望を持ち続けるということには忍耐が必要です。ローマ書5章でパウロが語っているように、私たちキリスト者にとっての忍耐は失望に終わることはありません。なぜなら私たちはすでに、イエス・キリストの十字架によって永遠の命を約束され、またその保障として聖霊の賜物を注がれているからです。私たちが罪人であった時にも、私たちを愛し、私たちのために御子の命をも惜しまずに与えてくださった御方が、今や神の子どもとなった私たちに、どれ程の愛と恵みを注いでいてくださっているかを私たちは知っているからです。キリストがご自分の羊である私たちを見捨てることは、決してありません。ですから、このキリストにある希望が失われることもまた決してないのです。  

Ⅳ.キリスト者は希望をもって救いの完成を待ち望む
 来週からは、御子イエス・キリストが救い主としてお生まれになられたクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)が始まります。そして私たち信仰者は、御子がもう一度私たちのところに来てくださる再臨の日を待ち望むアドベントを今生きているのです。その忍耐は、クリスマスが来るのを待ち望む子どものように、喜びと希望に満ちたものでもあります。私たちは今朝改めて、私たち信仰者に与えられている、決して失望に終わらない確かな希望を心に刻んで、共に御子のご降誕を喜ぶクリスマスの時を希望をもって待ち望もうではありませんか。

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