Ⅰ.第一のものを第一として生きる
今日の山上の説教を聞いていた群衆たちの多くは、貧しさや病を抱えて生きている人々でした。彼らにとってその日一日をどうやって生きていくか、明日家族にどうやって食事を食べさせるのかという事は、どうしても思い悩まなければならない切実な問題であったはずです。そのようにギリギリの瀬戸際を生きていた人々を前にして、主イエスは「だから・・・思い悩むな」と言われています。主イエスは今日の箇所で三度「思い悩むな」と命じておられますが、それらはすべて「だから」という接続詞から始まっています。ですから主イエスは何の根拠もなく、人々が抱えている切実な問題を無視して気休めの言葉を投げかけておられるのではありません。一つ一つ理由を告げた上で「だから、思い悩むな」と言われるのです。
そこで第一の「だから」はその前の「あなたの目と心を天の富に集中させなさい(6:19-24)」という教えを受けて、「だから」思い悩むなと述べています。主イエスがここで問題にしておられるのは、優先順位の問題です。私たちが本来、第一に心を向けなければならないのは命や体のことです。それよりも価値の低い、食べ物のことや衣服のことに心を奪われてはならないのです。「命(プシュケー)」は「魂」という意味もある言葉です。それは私たちの体も魂も生かすことが出来る本物の命のことです。私たちが本来第一に心を配るべきなのは、この本物の命なのであって、食べ物や着る物ではないのです。
Ⅱ:空の鳥、野の花から学ぶ
二番目の「だから(31節)」で主イエスは、毎日の仕事や暮らしに追われて目一杯になっている人々に対して、空の鳥、野の花を注意深く観察することで、それらを養い、育んでおられる神の御業とご配慮があることを悟りなさいと教えておられます。もちろん現実の鳥は、弱肉強食の世界に生きています。しかし鳥たちは何のルールもない無秩序な世界に生きているのではありません。一羽の鳥を養われるのも、その命を取り去られるのも、それはどちらも天の神ご自身なのです。同じように、野の草花をソロモンよりも華やかに装わせてくださるのも、それが枯れて地に落ちるのも、すべては神の永遠のご計画の中にあるのです。
「自分では働きもせず、蓄えることもしない空の鳥や野の花でさえ、天の父なる神のご配慮の中で生かされ、死んでいく。もしそうであれば、鳥や花よりも価値のあるあなた方に対しては、神はもっと豊かで細やかな愛とご配慮を示して下さるはずではないか」と主イエスは言われるのです。
空の鳥や野の花はいわば、その神の愛とご配慮の象徴です。主イエスは、そのような自然の被造物の中にある神の愛とご配慮に目を向けさせた上で、『だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな』と言われるのです。
Ⅲ:神の国と神の義を求める
最後の「だから」は34節にあります。直前の32節で主イエスは、食べ物や衣服に関する思い悩みについて、『それはみな、異邦人が切に求めているものだ』と述べています。彼らは空の鳥や野の花を見ても、それらの一つひとつまでご配慮してくださる天の神がおられるということを知らない人々です。しかし、私たちキリストの弟子とされた者は、祈る前から私たちの必要をすべてご存じであり、その私たちのために配慮してくださる天の父がおられるということを知っています。
主イエスはここでも、その信仰者に注がれている「神の特別な愛」に目を上げさせた上で「だからあなたがたは思い悩むな」と言われるのです。鳥や野の花が、すべての被造物と人に与えられている神の恵みの象徴だとすれば、私たちキリスト者は、それ以上の特別な神の愛とご配慮の中で生かされています。すなわち、キリスト者には、神の永遠のご支配である神の国と神の義が与えられると約束されているのです。
ここでの「神の国と神の義」は25節の「命」の別の表現であると言っても良いでしょう。それは主イエスによって与えられる魂の救いであり、更には将来における肉体の復活を伴う永遠の命の約束です。これこそ私たちが第一に求めなければならない、本当に価値のある命です。人は、この永遠の命を求めることが生きる目的であって、食べ物や衣服の心配をするために生きているのではないのです。
Ⅳ:キリストの十字架を見上げて
もちろん私たちは、キリスト者になったからと言って、それでこの世の心配事から解放されて、もう何も思い悩まなくなる訳ではありません。そして「思い悩まない」とは、いつも能天気に喜んでいる事ではありません。たとえ私たちの目の前に、思い悩まずにいられない辛く厳しい現実が横たわっているとしても、それでもなお神の愛を見上げて、その神の愛を信じること、それが「思い悩まない」生き方です。
そしてその神の愛が最もはっきりと私たちに示されているのは、あのイエス・キリストの十字架です。思い悩みの中にある時に、そこでイエス・キリストの十字架に示された神の愛を見上げて、神に信頼する信仰を与えられること、それが「思い悩まない」ということなのです。
それは、一朝一夕に成し遂げられるのではなく、私たちの信仰の全生涯を通して成し遂げられていく聖霊の御業です。私たちは、主イエスを信じて信仰を持ったその日から、もう何も思い悩まなくなる信仰を与えられるのではありません。毎週の礼拝を通して、主イエスの十字架と神の愛を示され続けることによって、やがて握りしめている思い悩みを手放すことが出来るように変えられていくのです。そして様々な信仰の戦いを通して鍛えられ、私たちの日々に注がれている神の愛と配慮に目が開かれていき、思い悩みの尽きないこの地上の生涯を「思い悩まない」で生きる信仰へと変えられていくのです。
Ⅴ.明日のことを思い悩むな
最後の34節で主イエスは、そのようにあなた方は神の深い愛とご配慮の中で生かされているのだから、『明日のことまで思い悩むな』と言われます。それは単なる楽天主義ではなく、今日という一日を、神から与えられた大切な一日として、感謝して精一杯生きるということです。私たちは永遠に変わることのない愛の神が、今日も明日も、世の終わりまでいつも共にいて下さると信じて、明日の心配を委ねて、今日この一日を、神と人のために精一杯生きるのです。それが私たち信仰者の「明日のことを思い悩まない」生き方です。そしてその神の愛に信頼して、思い悩みから解放されて生きる私たち信仰者の姿こそが、空の鳥よりも、野の花よりも、もっと鮮やかに愛なる神を世の人々に指し示す確かな証しとなるのです。