Ⅰ:罪を赦す権威を巡って
今日のお話に登場するのは、中風(脳血管の病気による麻痺)を患っている男性です。当時は、病気や先天的な障がいは、本人か親、もしくは先祖の誰かが犯した罪の罰としてもたらされたものであると考えられていました。しかしそういう人々の中にあって、この中風の男性の周りには、彼を主イエスの下にまで連れて来てくれる友人たちがいたのです。マルコ福音書には、主イエスの周りに人が多くて近付けなかったために、建物の屋根を剥がして、そこから男性を釣り下ろしたという彼らの大胆な行動が記されています。そこで主イエスはこの時、中風の男性本人ではなく、彼を連れてきた友人たちの信仰をご覧になって、この男性の病を癒されたのです。
しかし今日のマタイ福音書では、その友人たちの大胆な行動は、ほとんど省略されています。今日の箇所で著者が読者に伝えようとしている中心的なテーマは、3節以降の、主イエスの罪をゆるす権威を巡る議論の部分です。
主イエスはこの時、人々から罪人と蔑まれてきたこの男性に「子よ」という愛情に満ちた言葉で呼びかけ、「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と励まされました。ところが、この場に居合わせた律法学者は心の中で「この男は神を冒涜している」とつぶやきいたのです。
なぜ彼らは「あなたの罪は赦される」という主イエスの言葉を、神に対する冒涜と受け止めたのでしょうか。それはユダヤ教の理解においては、人の罪を赦すことが出来る権威を持っておられるのは、神ただお一人であったからです。しかし主イエスはこの時、自らの権威でこの男性に罪の赦しを宣言しました。そこで律法学者はその、自分が神と等しい存在であるかのような主イエスの発言を聞いて、腹を立てたのです。
そして確かに、人の罪を本当の意味で赦すことが出来るのは人ではなく、神しかおられないというのが聖書の教えです。ですから律法学者の理解自体は間違ってはいないのです。しかし彼らは、目の前にいる主イエスが、人の罪を赦す権威を持つ神の御子であるということを理解できず、その権威を認めようとしませんでした。そこで主イエスは、その彼らの考えを「悪いことである」と指摘したのです。
そして畳みかけるように「中風の人に対して『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが簡単か」と問い掛けておられます。
Ⅱ:どちらが簡単か?
中風の人に「起きて歩け」と命じて立ち上がらせるということは、私たちには全く不可能なことです。一方で誰かに「あなたの罪は赦される」と告げることは、表現は違ってもこれと同じような言葉を耳にすることがあります。「あなたがやっていることは、みんなもやっていることだ」「本来人間は何をするもの自由だ。人に迷惑を架けなければ何をしてもいい。」等など・・・。それは形を変えた「あなたの罪は赦される」という言葉なのではないでしょうか。ですから私たちにとっては、中風の人に「立って歩け」と言うよりも、「あなたの罪は赦される」と告げる方が易しいのではないかと思うのです。
では、律法学者たちにとってはどうだったのでしょうか。中風の人に「立って歩け」と命じて歩かせることは、彼らにとってもやはり不可能なことです。しかもその場合、それが本当に実現するかどうかは、すぐに結果として現れることになります。一方で「あなたの罪は赦される」いう言葉は、その言葉が真実かどうかはすぐには分かりません。ですから、真偽はおいておいて、口先の言葉として言うだけなら、こちらの方が易しいと言えるでしょうか。そして律法学者たちは、主イエスの「あなたの罪は赦される」という言葉も、これと同じように口先だけの中身のない言葉であると考えて主イエスを批判したのです。
Ⅲ:十字架によって罪の赦しを確信する
それでは、主イエスにとっては「病人を癒す」ことと「罪人を赦すこと」の、どちらが易しいことなのでしょうか。
主イエスは、これまでも様々な病を患っている人を癒して来られました。そうであれば、中風の男性に立って歩けと命じて歩かせることは造作もないことだったのでしょうか。しかし仮に主イエスがこの男性の病を癒すことが出来たとしても、(人々が病の原因であると考えていた)罪の問題を解決することが出来なければ、この男性が抱えている問題の、根本的な解決にはなりません。
ですから病を癒すことも、罪を赦すことも、それは一つのことです。そしてもし主イエスがこの中風の男性を、立って歩かせることが出来るとすれば、それはその病を生み出した原因である罪が確れたか赦されたということを、目に見える形で証しすることになるのです。
そこで主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と告げて、中風の人に「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と命じられました。するとこの男性は起き上がって、自分の家へ帰って行ったのです。
こうして主イエスは、ご自分の「あなたの罪は赦される」という言葉が、決して口先だけの中身のない言葉ではなく、それは真の力と権威ある神の言葉であるということを、人々の前で示されたのです。
今日の「あなたの罪は赦されている」という主イエスの言葉は、決して口先だけの気休めの言葉ではありません。このお方は、私たちの罪の赦しを成し遂げるために、神の御子としての栄光を投げ捨てて、人となってこの地上に来てくださったのです。そして最後には十字架刑によってその身を裂かれてくださったのです。「あなたの罪は赦されている」という言葉は、その十字架の犠牲の命によって保証されているが故に、私たちが信じるに足る、真実の言葉なのです。
そして私たちは、このキリストの十字架のみ苦しみを見上げる時に、「他の人もやっているから」と目を背けて誤魔化していた、自らの罪の本当の大きさを初めて知ることが出来るのです。と同時に、その私の赦されがたい罪も、キリストの十字架の故に赦されているという事を、心から確信することが出来るのです。そしてその喜びの中で、本当の悔い改めへと導かれていくことが出来るのです。
Ⅳ:罪赦された者から、赦す者へ
今日の箇所の終りには、『群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。』という人々の反応が記されています。この「人間」という言葉は、原文では複数形の言葉になっています。それはつまり、このキリストの持っておられる罪を赦す権威が、やがて教会に委ねられたということを暗示しているのです。私たちはキリストによって罪を赦されたら、それで終わりなのではありません。キリストによって罪赦された者は、今度は自分自身が誰かに罪の赦しを告げる者となるために、この権威をキリストから委ねられるのです(ヨハネ20:23)。
主イエスは、中風の男性を立たせることで、ご自分の言葉が真実であることを証ししました。では、教会が語る罪の赦しは、どのようにして真実であると分かるのでしょうか。それは、滅びるべき罪人から罪赦された者へ変えられた喜びに生きる、私たちの姿によってです。そしてその罪赦された者が、今度は罪を赦す者へ変えられていく私たちの姿こそが、中風の男性を歩かせる以上の、神が私たちに実現してくださった神の奇跡なのです。