2023年12月10日 朝の礼拝「人を裁く前に」
- 日付
- 説教
- 堂所大嗣 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 7章1節~6節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 7章1節~6節
Ⅰ:人を裁くな
7章の始めで主イエスは、有名な「人を裁くな」という教えを語られています。しかし裁判所や検察といった司法制度自体が否定されるのであれば、私たちは社会秩序を保つことは出来ません。また教会の秩序を保つということもおぼつかなくなってしまいます。ここで主イエスが言われる「人を裁く」という行為は、公の裁判や教会による罪の勧告を禁じているのではありません。ここでは、兄弟姉妹が個人の間において、他人を非難する目的で粗探しをしようとすることを戒めておられるのです。主イエスは、あなたがたキリストの弟子は、そのように人の欠点をあげつらって、いつも人を非難し、攻撃する態度を取ってはならないと言われるのです。「あなたがたも裁かれないようにするためである」という言葉は「神的受動態」と呼ばれ、ここで隠されている主語は神御自身です。私たちが真の審判者である神の席に自らが座って人を裁こうとする自己中心の罪を神は厳しくお裁きになるのです。しかもその神の裁きは「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」のですから、その裁きに対して言い訳出来ません。主イエスはここで人を裁くことの虚しさ、愚かさを教えておられるのです。
Ⅱ:まず自分の丸太を取り除く
にも関わらず、人は他人の粗を探し出し、人を裁くことを止めらないのは、そのことによって自分の正しさや賢さを周囲や自分自身に証明しようとする、歪んだ優越感と自己肯定感から来るものではないでしょうか。しかしそのように他人を非難して自分を高見に立たせることは、むしろ私たち自身が持っている罪や弱さという問題から目を背けさせることになります。そこで主イエスは、あなたがたには、人の罪を裁くよりも前になすべきことがあると言われています。それが自らの目の中にある丸太を取り除く事です。「おが屑」とは、相手の小さな過ちや欠点のこと、「丸太」は、それとは比べ物にならない大きな欠点のことです。私たちはもし、自分の目の中にある丸太に気が付いていたなら、恥ずかしくて他人の目のおが屑を取らせてくださいとは言えません。人を裁くことに熱心な人は自分自身の持っている罪や欠点に気が付いていない人です。問題は、私たちの中に罪や欠点があるという事ではなく、その自らの罪や欠点に目を閉ざしていて、見えていないという事です。主イエスはそのように、自らが持っている大きな罪に目を向けようとしない者を「偽善者」と呼んで、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われるのです。
Ⅲ:豚に真珠
さて、この「人を裁くな」という教えに続いて、6節には「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない」というもう一つの教えが語られています。6節で「神聖なもの」とか「真珠」と言われているのは、主イエスがここまで語って来られた神の国の律法=福音の事であると理解することが出来ます。そこで7章冒頭では、その「神の国の律法(福音)」を(当時のユダヤ教の律法がそうであったように)他者を裁くための道具としてはならないと主イエスは教えておられるのです。しかし「人を裁くな」という言葉は、隣人がどんな罪を犯そうが、それを責めてはならないということではありません。そのような隣人に対する無関心、無責任な態度は、愛することの対極にあるものですし、キリストの命の代償としての福音を、罪を見逃し、言い逃れるための方便のように扱うことは、神聖なものを犬や豚に与えて無駄にしてしまうことになるでしょう。あるいは、私たちの働きには限界があるということを忘れて、自分の力で人を救うことが出来ると考えるなら、それは神と自分を取り違えて、やはり福音を人を裁く道具としてしまうことになりかねません。
Ⅳ:裁く相手ではなく、愛する相手として
「人を裁く」「人を全く裁かない」という態度はどちらも、自分を真理の審判者の席に座らせて、福音を自分に都合のよい道具として軽率に取り扱うという態度から来ているのです。自分がまるで神になったかのように、自分の尺度、自分の価値観、自分の損得で他人を裁き、人を傷つけ打ち砕いてきた自己中心の罪こそ、私たちが本当に真剣に目を向けなければならない「目の中の丸太」なのです。その「目の中の丸太」自分自身の中に巣くっている罪を取り除かなければ、私たちは他の兄弟姉妹を正しく見つめることも、救いの福音へと導くことも出来ないのです。「人ではなく、まずあなたから始めなさい」それが聖書の教える原則です。
しかし私たちは、その私たちの目の中にある罪の丸太を自分の力で取り除くことは出来ません。それがお出来になるのはイエス・キリストただお一人です。このイエス・キリストこそ真の審判者なのです。その主イエスがなさった裁きは、罪人であるの罪や弱さを厳しく攻めて裁くのではなく、私たちの罪や弱さをすべて知りつつ、ご自分がその罪の罰を私たちの代わりに全てその身に追ってくださるという、愛と慈しみに満ちた裁きでした。その私の罪の丸太を、ご自分の命をもって取り除いてくださったキリストの十字架の愛を知ることによって、私たちは初めて目の前にいる兄弟姉妹を「裁くべき相手」としてではなく、「同じ罪人の一人」として見つめることが出来るようになるのです。主イエスを知る時に私たちは「見える目」を持って相手の罪や弱さを憐れみと同情の心を持って見つめ、その人をキリストの愛によって建て上げる愛の眼差しを持つことが出来るようになるのです。神の恵みに対する感謝と喜びに根ざして、人を許し慰めて、このキリストの命に生かすために正しく用いることが出来る真の愛の目を開かれて「本当に見える者」となることが出来るように、私たちは今日もキリストの十字架の愛を見上げ続けようではありませんか。