2023年12月17日 朝の礼拝「神を愛し、隣人を愛せよ」

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2023年12月17日 朝の礼拝「神を愛し、隣人を愛せよ」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 7章7節~12節

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 7章7節~12節

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Ⅰ:親の子に対する愛
 ある律法学者が主イエスに「律法の中で、どの掟が最も重要か」と尋ねた時、主イエスは、「心を尽くして神を愛すること」「隣人を自分のように愛すること」の二つを挙げました。そしてそのことを具体的に解き明かされたのが、この「山上の説教」の教えです。7章7節から12節は、いわばその結論にあたる部分です。
 7節は「求めよ、さらば与えられん」というフレーズで知られています。「求める」「探す」「叩く」はいずれも「祈る」ということの言い換えとして用いられている言葉です。あなた方が神に祈るなら、神はその祈りを必ず聞いてくださると主イエスは言われるのです。この三つの命令は、ただ一度祈ったらそれでお終いなのではなくて、執拗に、しつこいくらいに何度も繰り返して「求め続けなさい、探し続けなさい、叩き続けなさい」という表現です。そしてそのように神の救いの御手を熱心に願い求める信仰者の祈りに、神は必ず答えてくださると改めて約束してくださっているのです。

 続く9節以下で主イエスは、そのように神に信頼し続ける姿勢を「親子関係」に準えて説明しておられます。子ども(特に幼い子ども)は、親、あるいは大人の養育や庇護がなければ、生きていくことは出来ませんし、子どもの生活を守るということは、親に課せられている義務でもあります。しかし親は義務だから、仕方なく養育するのではありません。自分の子どもに対する愛情の故に、その子が求めるもの、必要とするものを与えようと努力するのです。親であれば、自分の子どもを苦しめて不幸にするために、パンの代わりに石を与えたり、魚の代わりに蛇を与えるようなことはしません。 主イエスはそのように、私たちのような「悪い者」でさえ、自分の子どもには何の見返りも求めないで良い物を与えようとするのだから、『ましてあなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださらない訳があるだろうか』と述べて、その愛に信頼するように教えているのです。

 それでは一方の子どもはどのようにして親に対する愛情を示すことが出来るのでしょうか。それは子どもが自分を親として心から信頼し、自分に頼り、助けを求めるということによってではないでしょうか。親は、子どもが役に立つことをしてくれるから、子どもの愛情を感じるのではありませんし、常に親の命令に従って、言われた事を何でもその通りに実行する子どもが、その親のことを本当に愛しているとも限りません。時には、親が困ってしまうくらい執拗に泣き叫んで欲しいものを求め続けるということがあるかも知れませんが、しかしその背景にある自分に対する信頼を感じて、親は子の愛情を知ることが出来るのではないでしょうか。そしてそのように子の自分に対する愛情を感じることが、親にとっては無常の喜びであるのです。

Ⅱ:子の親に対する愛
 「神を愛する」とは、私たちが何か神の訳に立つような奉仕や働きをして神を喜ばせるということではありません。あるいは神の命令を完全に成し遂げて、模範的な信仰者となって生きるということでもありません。幼子のように、天の父なる神に信頼して、祈り求め続けることが、律法の第一の戒めである「心を尽くして神を愛するということ」なのです。祈りは、その神に対する愛と信頼を具体的に示すことが出来る行為なのです。祈りを通して、幼い子どものように天の神に私たちの願いも弱さも罪深さも、すべてを打ち明けて、天の父に信頼して助けを求め続けるということ、それが「心を尽くして神を愛する」ということなのです。 
 そのように真剣に神に自分の求めるものを祈り続け、神に対する愛と信頼を示すなら『あなたがたの天の父は、必ずその祈りに答えて求める者に良い物を与えてくださる』のです。ではその「良い物」とは、一体なんでしょうか。それは一言で言えば、6章の終りで求めるものに与えられると約束されている「神の国と神の義」ではないでしょうか。山上の説教の「敵を愛しなさい」とか「人を裁くな」「思い悩むな」という教えを聞く時に、私たちは「自分には敵を愛したり、思い悩まずに生きるなんて出来っこない」と端から諦めてしまって、それを真剣に神に求めようとしないのではないでしょうか。しかし主イエスは、私たちが神の国と神の義を真剣に求めて、それを与えてくださいと神に祈り求め続けるなら、あなたがたの天の父はそれを必ず私たちに与えてくださると約束して下さっているのです。私たちはこの約束に信頼して、もっと真剣に大胆に、そしてしつこいくらいに聖霊の賜物を祈り求め続けてもてよいのです。

Ⅲ:隣人を自分のように愛する愛
 そして12節の御言葉は、律法のもう一つの原則「隣人を自分自身のように愛する」の具体的な説明です。これとよく似た教えは、当時のユダヤ教の教えや古代の哲学者の中にも見られます。しかし根本的な違いが両者の間にはあります。今日の箇所では神に信頼し祈ること、そしてその祈りに神は必ず応えてくださることが語られた後で「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と述べていることです。
 「自分がして欲しい事を相手にもしなさい」というだけなら、それは単なる道徳訓に過ぎません。しかし私たちは、私たちの天の父が私たちが求めるものを惜しみなく与えてくださる憐れみ深い御方であるから、『だから』私たちも自分がして欲しいと思う愛を、隣人に与え続けるのです。
 神がまず私たちを愛してくださって、ご自分の御子であるイエス・キリストを私たちの元へと遣わしてくださいました。私たちキリスト者の愛の原点、出発点はいつもこの神の愛であります。そしてその神の愛に応えて、神に信頼し、神を愛する愛を聖霊によって与えらえる時に、今度は私たちは自分に与えらえているその神の愛の故に、隣人を愛する者へと変えられていくのです。 「心を尽くして神を愛する」ということと「隣人を愛する」ということは一体的な教えなのです。そしてその愛の源泉は、私たちのために十字架で命をもお与えくださったイエス・キリストの十字架の愛にこそあるのです。
 このアドベントの時、私たちは、ご自分の御子を私たちにお与えになり、この地上に遣わしてくださった天の父なる神の私たちに対する深い愛をもう一度心に刻み、私たちもまた心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛する者へと変えられることが出来るように、諦めず、疑わずに、熱心に聖霊の助けを祈り続けようではありませんか。

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