2023年12月31日 朝の礼拝「狭い門から入りなさい」
- 日付
- 説教
- 堂所大嗣 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 7章13節~14節
7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 7章13節~14節
Ⅰ:狭き門
7章13節以降は、山上の説教の結びの部分です。17~28節には、繰り返し「行う」という言葉が出てきます(原文のギリシャ語では、この7章13節以降に実に9回も「行う」という表現が出てきます)。ここで主イエスが語ろうとしていることの中心は、主イエスが語った山上の教えを、ただ聞いて終わるのではなくて、あなたがたはそれを行いなさいということです。山上の説教を実際に生きる時に初めて、その教えは意味あるものとなるのです。
そしてその導入として語られているのが、今日の13節、14節の御言葉です。ここに出て来る「狭き門」という言葉は日本でもよく、ごく限られた人しか合格できない難関大学や、司法試験のような難しい試験などによく使われる言葉です。そして、この聖書の言葉が日本人にも知られているもう一つの理由は、フランスのノーベル賞作家アンドレ・ジッドが書いた「狭き門」という小説ではないかと思います。しかし、この小説に出てくる神は、与えることをしないで、人を絶望に淵に人を追いつめて、奪っていくだけの神でしかありません。そして私たちが「狭い門から入りなさい」という主イエスの命令からイメージするのも、この小説のように、この世の楽しみや地上的な幸福を棄てて、禁欲的に、ストイックに生きるということ、あるいは聖書に書かれている教え(たとえば山上の説教の教え)を、一つ一つ忠実に守るということなのではないでしょうか。そうであれば、この「狭き門」という言葉は、聖書の言葉を守ることが出来る一部の信仰的なエリートだけが入る事の出来る「狭き門」であって、それは東大受験や司法試験の「狭き門」と大差ないことになります。
一方で、今世界で最も宗教人口が多いのはキリスト教です。14節の「命に通じる門を見いだす者は少ない」という言葉は、確かに日本の教会の状況には当てはまるかも知れませんが、しかし世界全体とその歴史を見渡すなら、むしろ信仰の道は大勢の人が通る広い道なのではないでしょうか。一体主イエスが言われる「狭い門から入る」というとはどういう事なのでしょうか。
Ⅱ:あなたはどの道を選ぶのか
そこでルカ福音書11章の並行記事では、弟子たちの「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問に対して、主イエスは直接的な回答を返すことをされないで、「狭い戸口(門)から入りなさい」とお答えになっています。すなわち、救われる人が多いのか少ないのか、誰が救われるのかについは、あなたがたが心配することではないし、知る必要もないと主イエスは答えておられるのです。ですから、この「狭い門を見出す人は少ない」「広い門を通る人が多い」という主イエスの言葉は他人との比較を語っているのではなくて、「あなたはどうするのか」ということを問うているのです。大切なことは、主イエスの御言葉を聞いた「あなた」が狭い門を通ることを選ぶのか、それとも広い門を通るのかということであって、救われる人が多いか、少ないかという話ではないのです。
Ⅲ:滅びに至る広い道
滅びに至る広い道は、私たち人間が本来持っている性質、罪の性質に従って歩む道です。そこでは私たちが自分を変えることも、制限することも求められない、人間にとって楽な道です。自分は神を信じなくてもやっていける、歩いて行けると思い込んでしまうような、快適で歩きやすい道なのです。それに対して、14節の「細い」という言葉は、「押し付ける」という動詞に由来する言葉で、「窮屈な」とか「圧迫された」という意味を持つ言葉です。他の箇所では、「苦しめる」とか「苦難」という風に訳されています。それはこの細い道が、誤解や拒絶、迫害を伴う道であることを暗示しています。この命に至る道は、人々が羨むような名誉や利益を得ることが出来る、見栄えの良い道ではありません。むしろ誰もが避けたくなるような険しい苦難に満ちた道、見栄えのしない細く狭い道です。ですから、命の道を自分の力で選び取ることは、私たちには到底不可能です。いやそもそも私たちは自分からは、命の道を見出そうともしません。なぜなら今自分が歩いている「滅びに至る道」は、広くて、歩きやすくて、しかもそれは大勢の人が通っていく道だからです。ですから、たとえ神が律法を通してその命の道を示されても、人はそこに足を踏み入れる勇気を持ちません。それが私たちが持っている罪の性質なのです。
Ⅳ:命に至る狭くて広い道
主イエスは、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる(ヨハネ10:9)」と言われ、自分こそが命に至る道であり、門であると教えておられます。私たち人間には、到底見出し得ない狭い道、通り得ない細く険しい道を、ただ主イエス・キリストお一人が歩むことが出来たのです。そして、ご自分に続く弟子たちのために道を切り開いてくださったのです。主イエスは、山上の説教を通して、この命に至る道を私たちに示して下さり、そしてその命に至る道を見出し得ない私たちを、ご自分の後に従って狭い門から入りなさい、命に至る道を歩きなさいと招いておられるのです。
その命に至る道はイエス・キリストという御方に結ばれているなら、誰でも通ることが出来る道です。この世的な力や知恵が何もなくても、人から称賛を受けるような能力や力がなくても、この世の他の者には到底救いがたい、罪と悪で汚れたこの私でさえも、キリストに御後に従って通ることが出来る道です。その意味でこの命に至る道は、人間の力では見出すことが出来ない狭い道であると同時に、キリストに従っていくなら、誰でも通ることが出来る広い道でもあるのです。
旧約朗読でお読みしたイザヤ書30章22節にはこう書かれています。『21:あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。』
私たちが命に至る細い道を見出し、その道を歩き続けることが出来る方法は、この神の御声に聞き続けるということです。教会の礼拝を大切にして、礼拝を通して、私たちが行くべき道を語り掛けてくださる神のみ声に、静かに耳を傾けて、その神の御言葉に生きるということ、それが狭い門から入るということなのです。