2024年01月07日 朝の礼拝「良い実を結ぶために」

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2024年01月07日 朝の礼拝「良い実を結ぶために」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 7章15節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 7章15節~23節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:実によって木を知る
 山上の説教を語り終えるにあたって主イエスは弟子たちに「狭い門から入りなさい。」と教えられました。そして今朝の箇所では、滅びに至る広い門へと誘惑する「偽預言者」を警戒するようにと教えておられます。「偽預言者」は、旧約聖書においてもすでに申命記などにその存在を確認することが出来ます。そして新約聖書の時代のキリスト教会もまた、ユダヤ教徒やローマ帝国といった教会の外にいる迫害者だけでなく、教会の「内なる敵」としての偽預言者、偽教師と戦わなければなりませんでした。私たちはそのような「偽りの教え」に惑わされないために、「本物」を見分けるための「信仰の目」を普段から養うことが必要なのです。
 では、私たちは一体何によって「本物」と「偽物」とを見分けることが出来るのでしょうか。今日の箇所で主イエスは、彼らが結ぶ「実」によって、それが本物が偽物かを見分けることが出来ると言われます。茨の木にぶどうの実が実ることはありません。ぶどうの実は、ぶどうの木からしか獲ることは出来ません。ですから、実っている実を確かめれば、それがどの木に繋がっているのかを判断することが出来ます。主イエスは、この原則を人間にも当てはめて、『あなたがたは、その人が結んでいる実を見れば、その人が本物か、偽物かを見分けることが出来る』と言われているのです。
 ですから、ここで言う「実」とは、行いや言葉など、その人の内面や心の在り様が目に見える形で現れてくるもののことです。その人が本当はどういう存在なのか。その人が何を考え、どういう生き方をしているのか。その事は、その人の言葉や行いによって明らかになると主イエスは言うのです。それは裏を返せば、繋がっている木(その人自身)が良いものにならなければ、「実(=言葉や行い)」だけを良くするということは出来ないという事です。

Ⅱ:あなたたちのことは全然知らない
 主イエスはここで、『良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』と警告しておられます。これはすなち、世の終わりの日の最後の審判における裁きを指しています。そしてその最後の審判の時に、『大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。』と告げておられます。ここで「主よ」と呼び掛けている人たちは、地上の生涯においてキリストの名によって預言をし、悪霊を追い出し、様々な奇跡を行ってきた人々です。それは正に人々の目を見張らせるような、偉大なキリスト者と呼ぶのに相応しい行いであったはずです。ところが、主イエスは彼らに対して『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』とお答えになるのです。
 この人々には、一体何が欠けていたのでしょうか。彼ら(偽預言者)の行いは、確かに人の目からは驚くような働きであったかも知れません。しかしその彼らの行いは「天の父の御心に叶う」ものではありませんでした。ですからそれは「不法な働き」「悪い実」と見做されたのです。人間の行いがたとえ、どんなに素晴らしいものであったとしても、それで天の国に入れるのではありません。それが神の御心に叶う行いであった時に、その行いははじめて「良い実」と見做されるのです。人間が持つどのような愛の行為も、自己犠牲の行為も、私たちを天の国に招き入れることは出来ないのです。

Ⅲ:キリストの十字架の愛に根ざして実を結ぶ
 その行いを神の御前に本当に価値があるものとすることが出来る愛、それはただキリストの十字架によって示された、本物の神の愛だけです。主イエスは、本来私たちが偽預言者として裁かれなければならないのに、その私たちの立つべき場所に私たちに代わって立たれて、父なる神から「私はあなたなど知らない。私の前から退け」という拒絶の言葉を受けられたのです。私たちが天の国に入ることが出来るか否かは、私たちの行いの良し悪しにかかっているのではありません。私たちの罪の身代わりとなってくださった主イエスが私たちを知っていてくださるかどうか、それが私たちが狭い門を通ることが出来るかどうかの分かれ目なのです。
 そして、主イエスが私たちを知っていて、愛していてくださるなら、私たちは決して偽預言者の声に惑わされて、命の道を見失うということはありません。たとえ一時的に道に迷うことがあっても、真の羊飼いである主イエスが、ご自分の羊の名前を呼んで、再び命の道へと呼び戻してくださるからです。この主イエスを信じて、この御方の命の幹に繋がれて、主イエスと人格的な交わりを持つということ、それが生まれながらの罪人である私たちが、良い実を実らせる良い木になることが出来るようになる、唯一の方法なのです。
 このキリストとの愛の交わりの中に生かされて、私たちがイエス・キリストという「良い木」に繋がれているなら、そこで私たちが行うどんな小さな愛の働きも、それはこの良い木である主イエスの愛に根ざしている働きであるが故に、天の父の御心に叶う良い実として祝福されるのです。そしてこの神の御子に自分自身を全く明け渡して、このキリストの愛に固く結び付けられて生きるということ、それこそが天の父の御心を行うということなのです。

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