Ⅰ: 岩の上に建てた家と砂の上に建てた家
山上の説教の最後に納められているのは「岩の上に建てた家と砂の上に建てた家」のたとえ話です。「岩の上に建てられた家」とは、地面を土の下の岩盤にまで深く掘りさげて、そこに堅固な土台を据えて建てられた家です。そういう家は、災害が襲いかかって来たとしても倒れることなく、住民の命を救うことになります。それと対照的なのが「砂の上に建てられた家」です。やわらかい砂地に建てられた家は、嵐や洪水によって流されてしまい、その家の住民は命を失うことになります。そこで主イエスは、『わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。』と言われるのです。
このたとえ話で「家」と言われているのは、いわば私たち一人一人の「人生」「生き方」のことであると言う事が出来ます。その場合、この世的な成功を納めて、立派な功績を残した人は、大きくて立派な家を建てた人に例えることが出来るでしょう。家(人生)に求めるものは人それぞれですが、いずれにせよ私たちの関心は、家自体に向けられています。すなわちどのような功績を挙げて、何を残すことが出来たのか、それがその人の人生の価値を決めるのです。
Ⅱ:何を土台としているか
ところが、主イエスは今日のこのたとえ話の中で、その家の大きさや間取り、見た目の立派さみついては何も触れておられません。ただ、その家が雨や嵐に襲われた時に、最後までそれに耐えて住民の命を守ることが出来るかどうかに関心を持っておられます。普段の何も問題がない時には、砂の上に建てた家も、岩の上に建てた家も大きな違いはありません。しかし、それが雨や風、洪水と言った災害に見舞われた時に、住民の命を最後まで守る事が出来る家が、本当に価値のある良い家なのです。ここで雨や風、洪水に例えられているのは、私たちの人生に起こる様々な不幸や試練のことという風に考えることも出来ます。人間の本当の姿が明らかになるのは、調子のいい時、平穏無事な時ではなく、危機や試練に直面した時です。そしてその時に、その人の生き方が試練に耐えうる本物であるかどうかが、問われることになるのです。
しかしこのたとえ話の雨や風、洪水は、そういう人生の不幸やトラブルだけではなく、究極的には、世の終りの日に待っている最後の裁きの時を表わしています。私たちの人生の価値が、最終的かつ完全に露わにされるのはこの、世の終わりの最後の裁きの時です。その最後の裁きの時に、その人の命を守ることが出来ずに崩れ去ってしまうような人生を建て上げるために労苦を耐え忍んでいるのだとしたら、これ程無意味な、虚しい生き方はありません。世の終わりの神の裁きにも耐え得るような人生を築き上げることが本物に意味のある生き方なのです。そしてそのような本当に価値ある人生は、私たちが何を土台として自分の人生を築いて来たかということによって決まるのです。すなわち、主イエスの言葉を単に聞くだけで終わるのではなくて、それに実際に聞き従うことが、本当に主イエスの言葉を土台とする生き方である、と主イエスは言われるのです。
山上の説教を語り終えるにあたって主イエスは、ここまでご自分の言葉を聞いて来た弟子たちに対して、あなたがたはそれをどのように受けとめて、どう応えるのか、という問いを投げかけておられます。山上の説教を単に良い教えや一般的な道徳訓として「聞く」だけで終わるのか、それともそれを「私」に語られている神の言葉として聞き従うのか、その選択と決断を私たち一人一人に迫っておられるのです。
Ⅲ:岩なるキリストの上に立って
この山上の説教の言葉を、主イエスがガリラヤで人々に語られた時、そこから遠く離れたエルサレムには、巨大なエルサレム神殿が建てられていました。ユダヤ人たちはこの神殿を「神の家である」と語り、その豪華絢爛な姿を異邦人に誇っていました。ところが主イエスはそのエルサレム神殿がやがて崩壊することを予告されました。そして一方では、ご自分が三日でその神殿を立て直すということを人々にお語りになりました。そして主イエスが言われた「三日で神殿を立て直す」という言葉は、ご自分の十字架の死と、三日目の復活のことを指していたのです。十字架と復活の主であるイエス・キリストこそが、世のあらゆる苦難にも、終わりの裁きにも決して倒れることのない堅固な土台の岩なのです。私たちが終りの日に問われるのは、今日与えられているこの一日を、主イエス・キリストという真の岩の上に立って生きているかどうかなのです。
そして教会はまさに、この主イエス・キリストという岩の上に建てられた神の家です(マタイ16章)。主イエスを神の御子と信じて告白するキリストの弟子の共同体こそが、世の終わりの裁きにおいても決して倒れることのない岩なるキリストの上に、キリスト御自身によって建てられた神の家なのです。そして終りの日に命に至ることが出来る者たちの集う新しい神殿なのです。
今日の山上の説教の終りには、群衆たちのイエス様の言葉に対する反応が示されている一方で、弟子たちの反応は記されていません。マタイ福音書を読んでいる初代教会の信仰者たちにとって、そのことは自明の理であったので、あえて記さなかったのかも知れません。すなわちキリストの弟子とされた者は、やがて岩の上に建てられた神の家である教会に結ばれていき、主イエスの言葉を聞くだけでなく、それに聞き従って命に至る者となったのです。
山上の説教を通して主イエスは、命に至る道と滅びに至る道を示して、自分の力でそのよい道を選びとるように二者択一を求めているのではありません。それは、私たちが滅びに至るためにではなく、主イエスを信じて永遠の命に至るように、そして良い木であるキリストに結ばれた私たちが、この地上の生涯においてキリストにあって良い実を結ぶことが出来るように、私たちを神の国の民の新しい生き方へと招くために主イエスが語られた恵みの言葉なのです。