2024年01月21日 朝の礼拝「主のみ心なら」

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2024年01月21日 朝の礼拝「主のみ心なら」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 8章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 8章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:主イエスとモーセ
 この福音書には山上の説教を含めて全部で五つの主イエスの教えがまとめられています。
マタイは、主イエスの教えを五つの説教にまとめることで、その教えが旧約聖書の律法である「モーセ五書」に匹敵する、あるいはそれを超えるような権威を持つ教えであるということを読者に示そうとしているのです。
 更に今日の8章から9章にかけては、山から降りてこられた主イエスが行われた10の奇跡が報告されています。これもまた出エジプト記においてエジプトに下された「10の災い」と重ね合わられています。マタイはこの4章から9章において、このナザレのイエスこそが、旧約に預言された「モーセのような預言者」であり、モーセの律法を神の御旨にそった完全な形でお与えになる「律法の完成者」であるということを語ろうとしているのです。
 こういう大まかなマタイ福音書の構成を把握した上で、今日の8章から始まる主イエスの奇跡の出来事の記事を見ますと、それは単に奇跡を起こす主イエスの力や、癒しの奇跡そのものに焦点を当てようとしているのでなく、奇跡を行われる主イエスの「権威」が一つの重要なテーマとなっているのです。

Ⅱ:重い皮膚病の男性の癒し
 そこで8章から始まる奇跡物語の最初に登場するのは、重い皮膚病に犯された男性です。
 かつてはこの「重い皮膚病」が、ハンセン病のことを指していると考えられていました。しかし現代の聖書研究においては否定されています。ただ、私たちが聖書を読むときに大切なことは、この言葉がどのような病を指しているのかという事よりも、この病に感染した人が、旧約の律法においては、宗教的に汚れた存在と見做されたということです。
 旧約のレビ記13章から14章にこの病に関する詳しい規定がありますが、そこでは病に感染した疑いのある人を祭司が調べた上で「あなたは汚れている」と言い渡すとされています。そして重い皮膚病に罹っているとされた者は、家族や同胞から離れて、一人で宿営の外に住まなければならないとも定められていました。それは律法の規定であり、神の御心として示されたものでした。彼らはその律法の既定の故に、「汚れた者」と見做されて、神の民の宿営からも礼拝からも遠ざけられていたのです。
 2節には、この重い皮膚病を患っている男性が、主イエスに「近寄り」「ひれ伏した」と書かれています。この重い皮膚病に犯された者は、先程のレビ記の規定によれば、「自分は汚れた者である」と声に出して周りの人に知らせて、人々との間に常に一定の距離を保たなければなりませんでした。ですからこの男性が、主イエスに「近付いた」ということは、律法違反であり、大変大胆な行動でした。そして「ひれ伏す」という言葉は、「礼拝する」とも訳される言葉です。この男性は律法の規定によって、神殿に入ることはもちろん、近付くとも出来ませんでした。彼は、律法によって神を礼拝するということを禁じられていたのです。ところがその彼が今、主イエスの前に「ひれ伏し」て、「礼拝した」のです。

Ⅲ:清くなれと望まれるイエス
 彼はここで「自分の病を癒して欲しい」とも「けがれを清くしてください」とも言いませんでした。『「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」』と述べたのです。この男性が汚れた者と見なされたのは、神がご自分の御心を示された律法を通してそう定められたからです。神はそのように、たとえ私たちがすべてを納得することが出来なくても、ご自分の御心を成し遂げる権威を持っておられるのです。
 そして今、この男性は、神が御心によって「汚れた者」とされたこの自分を、主イエスが御心ならば清くすることが出来ると告白したのです。それはすなわち、目の前にいるイエスが、神と同じ「権威」を持つ御方であると告白しているのに等しいのです。そしてこの男性は、主イエスの権威の前に、自分の願いや思いをすべて明け渡して委ねたのです。
 そしてそのように主に委ねる信仰を持ってご自分に近付いて来た、この男性に対して、主イエスは、ここで「手を差し伸べて」この男性に「触れ」られました。律法の規定によれば、この重い皮膚病を患っている者に触れば、その触れた者も汚れた者と見做されることになりました。主イエスはこの時、この男性の汚れをご自分の身に引き受けるために、自ら手を差し伸べて男性に触れられたのです。主イエスが手を触れられることで、神のみ前に汚れた者とされ、神との関係を絶たれていたこの男性が、再び神との交わりを回復したのです。そしてここには正に、主イエスの十字架の御業とその救いが暗示されています。主イエスはこの男性に触れながら「よろしい。清くなれ」と告げられました。「よろしい」と訳されている言葉は、「私は望む」という言葉です。ここに確かに主イエスのみ心が示されたのです。そしてそのみ心通りに、この男性は直ちに重い皮膚病が癒されたのです。こうして汚れを清められた男性に主イエスは、その事を誰にも話さずに、祭司に自分の体を見せるようにと命じました。主イエスによって清められたこの男性は、再び神の民の共同体の一員とされて、民とともに神を礼拝する者とされたのです。

Ⅳ.大胆にイエスを主と告白し、礼拝する
 本来、神のみ前に出て、神を礼拝する者は、汚れのない者、神を礼拝するのに相応しい者でなければなりません。罪で汚れている者は神のみ前に出ることは出来ず、神の民の交わりから絶たれ、神を礼拝することからも遠ざけられなければなりません。そして今日ここにいる私たちは皆、神を礼拝するのに全く相応しくない、罪で汚れた者であります。その私たちが、今日こうして主の日の礼拝に集うことが出来ているのは、私たちの主であるイエス・キリストがそう望んでくださったからです。そして罪で汚れた私たちに手を差し伸べて、あの十字架の上ですべてご自分の身に負ってくださったからです。私たちは主イエスによって清くされた者として、今日もここに来て、真の神を礼拝することが出来ているのです。
 私たちはこの恵みの礼拝において、もっと大胆にイエスを主と告白し、このお方に近寄り、このお方の権威に自らを委ねようではありませんか。それこそが主イエスによって罪清められた私たちに神が望んでおられる、神の御心なのです。

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