Ⅰ:コリントへの三度の訪問
今日の午後は、年に一度の定期会員総会が開かれる予定です。小会、役員会では今年の教会標語を「主は今日も共にいてくださる」と致しました。そして標語聖句としては、第二コリント13章4節の御言葉を選びました。
この手紙の宛先であるコリント教会は、パウロが二回目の宣教旅行の際に、パウロの伝道を通して建てられた教会です。1節でパウロが述べている「三度目の訪問」の最初の訪問は、このコリントに伝道した時の訪問のことです。そして二度目の訪問は、私たちが第一コリントと呼んでいる手紙を、パウロが書き送った後に、教会の信徒たちを直接教え諭そうとしてコリントを訪れた時です。しかしこの訪問において、コリント教会はパウロの教えを受け入れることを拒んだのです。そこで失意の内に彼らの元を去ったパウロは、今日の箇所で三度目の訪問をするつもりであると告げています。そしてその時には、戒規をも含めた断固とした処置をとるつもりであるという決意を述べているのです。
Ⅱ:パウロの弱さとキリストの弱さ
コリント教会の抱えている問題には、分派争いや倫理的な乱れなどがありますが、この手紙では特に、パウロが去った後に入り込んできた「偽使徒」の問題が中心的に取り上げられています。コリント教会の人々は偽預言者を支持するようになり、パウロの使徒としての資格や権威に疑いを持つようになったのです。コリント教会の人々が、パウロの権威を疑い、彼を拒んだ理由は、彼らの目にはパウロが手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」人物として映ったからです。それに対して、パウロが去った後にコリント教会に入り込んできた偽使徒たちは、律法の専門家を自称して堂々とした態度をとっていました。彼らは、教会を教えて回る際に高額の報酬を要求したために、経済的にも裕福で、身なりも立派でした。そこで人々は、これらの偽教師たちと比べて、みすぼらしく弱々しく見えるパウロを軽んじるようになり、遂にはパウロに対して使徒としての資格と権威を証明する推薦状を見せるようにさえ要求したのです。
彼らコリント教会の人々にとって、使徒であることの資格は、立派な身なりや、堂々とした態度を見せることでえあり、また雄弁な言葉で福音を語ることが出来るということ、しるしや奇跡を行うことが出来るということでした。そのような目に見える強さが、キリストが共にいるということの証拠であると考えたのです。しかし、彼らは最初からそのように考えていたのではありません。かつてコリントの人々がパウロを通して福音を聞いて信じたのは、パウロの目に見える立派さや雄弁な言葉のような目に見える確かさによってではありませんでした。パウロを通して語られた言葉が、目には見えないけれども確かに生きておられるキリストが語っておられる、ということを信仰によって信じたのです。ところが、やがてコリントの信徒たちは、そのような目に見えないものにではなく、目に見える強さや立派さにしるしを求めるようになりました。ですから変わったのはパウロでなく、コリント教会の方だったのです。そしてそれは、パウロに対する信頼を失ったというだけではなく、パウロを通して彼らに語っておられるキリストに対する信頼も失っていたということなのです。
しかしパウロは、自分が使徒であることの証拠は、そのような目に見えるものの中にあるのではないと述べるのです。何故なら、キリストの力もまた、そのような目に見えるものの中にではなく、むしろその弱さの中にこそ表れているとパウロは考えていたからです。キリストの弱さとは、このお方が私たちと同じ真の人となってこの地上に来られたことを指しています。神の御子であり、神御自身であられる御方が「人」となられたことによって、私たちと同じ肉体的、精神的な弱さをすべてその身にまとわれたのです。そして、その弱さの故に、キリストは人々に捕らえられ、罪人として十字架に架けられて殺されることになったのです。そのように私たち罪人のために弱さをもご自分の身に受け入れられて、人に仕える者となられた、そのキリストの姿に倣うのが、正に使徒と呼ばれる人たちです。コリントの教会の人々が蔑んだ、パウロの貧しさやみすぼらしさこそが、パウロが確かにキリストに結びあわされているキリストの使徒であることの証拠なのです。ですからパウロは、自らの弱さをさえ誇りとすることが出来たのです。
Ⅲ:キリストの強さ
しかしキリストはそのように、ただ弱いだけの御方ではありません。キリストは、神の力によって十字架の死から復活され、天に昇り、そして今も神の右の座について、力ある神の御子として生きておられるのです。そしてそれがキリストの持っておられる強さです。パウロは、自らがキリストの弱さだけではなく、この強さにも与るものであるということを自覚していました。それは目に見えないが、しかし確かに今も生きているキリストが、この私の内に共にいてくださり、私を通して働いていてくださるという信仰がもたらす「強さ」なのです。そしてそのキリストの福音に自らを委ねることが出来る強さと、その強さによって生き方が新しくされて、清い歩みを生きるようになることこそが、パウロがコリントの人々に期待していた信仰者の持つ強さなのです。
自分がどれほど罪深く、また困難や試練に耐えることの出来ない者であるかという自らの「弱さ」を自覚し、しかし同時にその私たちの罪を完全に清めることがお出来になり、私たちの内に働いて私たちを適格者として変えることがお出来になる「キリストの強さ」の、その両方を自覚することが、私たちが健全な信仰を生きるために必要なことなのです。
Ⅳ:主は今日も共にいてくださる
コロナ禍において、私たちは自分たちの教会が持っている弱さというものをまざまざと見せつけられました。しかしそれではこのコロナ禍が治まれば、それで私たちの問題が解決するのかと言えば、決してそうではありません。いつかまた、コロナのような病気が広がって、礼拝に集まることが出来ないという事態が起こらないとも限らないのです。そして、コロナ禍意外にも、教会の営みを脅かすような試練や困難は、いつ私たちに襲い掛かってくか分からないのです。そのような弱さの中で、しかし私たちには、確かな強さも与えられています。イエス・キリストが確かに私の内に生きておられるという信仰に立つときに、そのキリストにある強さが私たちの教会には与えられているのです。キリストが、しかし今日も生きて私たちと共にいて下さるという信仰にしっかりと立つということ、そこからこの一年の教会の歩みを共に始めて参りましょう。