Ⅰ:異邦人であるローマの百人隊長
今日の箇所で語られているのは、「ローマの百人隊長の僕の癒し」です。彼は「異邦人(ユダヤ人から見た外国人)」でしたが、異邦人もまた、先の重い皮膚病に犯された男性と同様に、ユダヤ人たちからは汚れた存在として見做されていました。
ですからユダヤ人は普段、異邦人と交流を持つということはありませんでした。異邦人の家を訪ねたり、彼らと一緒に食事をするということも決してなかったのです。そう考えますと、今日の箇所で主イエスが、「わたしが行って、いやしてあげよう」と申し出ていることは、驚くべきことです。
6節で百人隊長は『「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」』と訴えています。それに対する主イエスの答えが、先程の「わたしが行って、いやしてあげよう」という言葉です。ところが、この主イエスの答えは、文法的には疑問形として訳すことも出来ます。その場合は「わたしが行って、癒すのだろうか」という文章になって、新共同訳とは受ける印象が百八十度変わって来ます。
Ⅱ:百人隊長とカナンの女の癒しの奇跡
この二つの翻訳の仕方のどちらが正しいのかというのは、とても難しい解釈で意見の分かれるところです。そこでこの後の15章を見ますと、主イエスに癒しを求めたもう一人の異邦人、カナン人の女性が登場します。彼女は、自分の娘から悪霊を追い出してほしいと主イエスに願いましたが、それに対して主イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊(ユダヤ人のこと)のところにしか遣わされていない」と答えて、はっきりと拒否の意志を示さたのです。しかも、尚も食い下がるこの女性に対して「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」という侮辱的な言葉さえ投げかけています。
この、同じ異邦人に対する主イエスの態度との整合性を考えると、今日の箇所で主イエスが百人隊長の願いに快く応じるというのは不自然かも知れません。むしろここで主イエスは、カナンの女性の時と同じように、否定的な態度を示されたと考えるほうが合理的です。そこでもしそのように、この主イエスの言葉を否定的な回答として捉えるならば、それに対する百人隊長の応答の意味合いも変わってきます。つまり、百人隊長はここで、主イエスの否定的な答えを認めて「確かに仰る通り、私はあなたを家にお迎えする資格のない異邦人です」と答えたのです。
私たちは、自分の祈りや願いに対して、神がいつも即座に「私が行ってあげよう」と答えてくださることを期待しています。しかし信仰生活においては、神からいつもそのような好意的な答えがすぐに返ってくるとは限りません。私たちの願いに対して「なぜ私が行って、いやさなければならないのか」という否定的で冷たい答えが示されたと感じる場面も人生には少なくありません。しかし、神はたとえそれが私たちの望みとは違っていたとしても、ご自分のみ心を行うことが出来る権威と力をお持ちのお方です。ですから、その神のみ心に対して「アーメン」と答えることこそが、本当に主のみ前に遜るということです。そしてこの百人隊長は、その真の遜りをもって、この時、主イエスの否定的な言葉をも「アーメン(主よ、その通りです)」と言って受けとめたのです。
Ⅲ:イエスを主と信じる信仰
しかし、この百人隊長の信仰は、ただそのように自分を否定するというだけには留まりませんでした。彼は尚も主イエスに対して「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と答えたのです。百人隊長は、自らの汚れと弱さを認めつつ、なお主イエスに憐れんでいただく以外に自らの救いはないということを信じ、そう望まれるならそれがお出来になる「権威」と「力」をお持ちであるということを告白して、主イエスの権威の前に自らを明け渡したのです。この時、主イエスに従っていた人々は皆、アブラハムの子孫であるユダヤ人たちでした。しかし主イエスは彼らの中には、この百人隊長のような信仰を見出すことが出来ませんでした。神の御前に遜って、その憐れみ深い御心を求め続ける信仰を、神の民ではなくこの異邦人の中に見出したことに、主イエスはこの時、驚かれたのです。
福音書において、主イエスがその信仰を称賛された人物が二人登場しますが、その一人がこの百人隊長、そしてもう一人が15章のカナンの女性です。彼らは、どちらもアブラハムの子孫ではない異邦人であったのです。主イエスが最初に、彼ら異邦人の願いを拒まれたのは、福音はまず、神の民であるユダヤ人にもたらされなければならないからです。その神の救いの秩序に従って、主イエスはこの時、異邦人である彼らの願いを、一度は拒まれたのです。しかし、それは多くのユダヤ人たちが信じていたように、救われるのは神の民であるユダヤ人だけで、異邦人は救われることのない汚れた民である、ということを意味しているのではありません。主イエスは11節、12節で、世界中の様々な国や民族から大勢の人々が天の御国に入って、アブラハムたちと食事の席に着くことになると仰っています。そしてむしろ「御国の子ら」であるユダヤ人たちが、その天の御国の食事の席に着くことが出来ずに、外で泣いて歯ぎしりするだろうと述べておられます。そこで示されている、天の御国に入ることが出来る条件は、アブラハムの血筋を引いているという事ではありません。そのたった一つの条件は、「イエス・キリストというお方を主と信じる信仰」なのです。
Ⅳ:主のみ心を私の心とする幸い
この時、主イエスが称賛された百人隊長の信仰は、正に主イエスのみ心を自分の心とする真の遜りによる信仰でした。そこで主イエスは、最後に異邦人であるこの百人隊長の願いを聞き届けられて、『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』と言って、彼の僕を癒されたのです。ここで主イエスが言われた「あなたの信じた通りになるように」と言う言葉は、世の中で言われるような「自分が強く信じて願えば、それは必ず実現する」という意味ではありません。むしろ「私の信念」や「私の願い」を頼りにするのではなく、人を罪と死から救うことが出来る権威と力を持っておられる、主イエスに私のすべてを委ねて、このお方に従っていくということ、それこそが真に神に委ねる信仰です。そして、そのように神のみ心を私の心とする時に、そのあなたの「信仰」が、あなたを救うと主イエスは約束されるのです。