2024年02月11日 朝の礼拝「病を担われるイエス」

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2024年02月11日 朝の礼拝「病を担われるイエス」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 8章14節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
8:15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 8章14節~17節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:ペトロの姑の癒し
 8章から始まった主イエスの奇跡の最後は、弟子のペトロの姑の癒しの奇跡です。主イエスはカファルナウムの町に滞在しておられる時には、ペトロの家に寝泊まりをしていたようです。一日の宣教の働きを終えて、ペトロの家に戻って来られた主イエスは、ペテロの義理の母が熱病に犯されて、苦しんでいるのをご覧になられると、すぐに彼女の病を癒されました。すると癒されたこの女性は、すぐに主イエスを「もてなした」と報告されています。すなわち、彼女は主イエスに病を癒された後、いつも通りに主イエスの食事の準備を始めたのです。
 そしてこの「もてなした」という言葉には、「仕える」という意味があります。しかもこの言葉はここまで、未完了形の言葉として書かれていますから、彼女は一回きりもてなして終わったのではなくて、継続的に主イエスに「仕え続けた」のです。更に「起きた」という言葉は、聖書において「甦った」「復活した」という風にも訳されている言葉です。主イエスと出会い、このお方によって罪と死から救い出された者は、ただ「救われた」というだけでは終わるのではなく、今度は命を与えてくださった主に「仕える」者となるのです。
 しかもそれは、伝道集会とか礼拝説教といった場所でだけで主イエスに仕えるのではありません。今日のペトロも姑も、普段と違う特別な仕方で主イエスに仕えたのではなく、彼女が普段からしていた、主イエスの食事の用意をするという日常的な働きを通して主イエスに仕えたのです。もちろん礼拝生活を通して主に仕えるということは、私たち信仰者にとって第一のことであります。しかし私たちが「主に仕える」場は、それだけに限定されるのではありません。主イエスの御業は、私たちの普段の生活においても働かれるのであり、私たちもまた、日々普通に行っている仕事や学業などの普段の生活を通して神に仕える者として召し出されているのです。

Ⅱ:言葉によって病を癒すイエスの権威
 さて、ここまで最初の三つの癒しの奇跡をご一緒に見て参りました。この三つの奇跡の出来事を見ます時に、そこに登場する人々には一つのある共通点があります。それは、主イエスに癒された者たち(重い皮膚病、異邦人、女性)が皆、当時のユダヤ人社会や宗教において、汚れた者、あるいは神のみ前に欠けがある者と見做されていたということです。そしてその第一のグループの奇跡のまとめの言葉として記されているのが、16節、17節の言葉です。16節の言葉は、今日のマタイ福音書は、主イエスが「言葉」によって悪霊を追い出し、病人を癒されたと報告しています。そう記すことで、主イエスの言葉(教え)は、単に頭や心の中だけにとどまるのではなく、私たちの現実の生活や出来事において私たちを変えることが出来る、そういう権威ある言葉であることを読者に示しているのです。 

Ⅲ:私たちの病を担われたイエス
 最後にマタイは、主イエスがそのように人々の病を癒されたことこそが、この旧約聖書のイザヤ書の成就であって、それこそがこの御方が旧約聖書に預言されている真の救い主であったということの確かな証しである、と述べています。 
 病気は、ある日突然私たち、あるいは私たちの大切な人に襲い掛かって来て、その人の生活や命を奪ってしまう恐ろしいものであります。先日、生まれつき病気を持った子どもと、その子どもを育てている両親の姿を追ったドキュメンタリーを見ましたが、高熱や全身の痛みに苦しむ我が子を、ただ見ている事しか出来ない母親が日記の中で「子どもを助ける代わりに、私を殺してほしいと思う」と記していたのが印象的でした。恐らく病気の子を持つ多くの親が、同じ思いを持つのではないでしょうか。この病気というものが生み出す人間の悲惨さは、私たちが人生で抱えている様々な苦しみや悲惨な現実を象徴的に現わしているのではないかと思うのです。
 そして、主イエス・キリストというお方はそういう(重い皮膚病の男性、異邦人、女性、に象徴されている)この世の悲惨な現実の中で苦しみ、どこにも解決や希望を見出すことが出来ない人々を救うために、人となってこの地上に来てくださったのです。親が子どもの命が救われるためなら、自分の命を取り去って欲しいと願うように、主イエスは私たち一人一人のために「この者が救われるためになら、どうぞ私を殺してほしい」と神に願われて、そしてその願い通りに私たちのためにご自分の命を十字架において捧げてくださったのです。この愛なるお方の真実の言葉だからこそ、主イエスの言葉には、私たちを新しく造り変えることの出来る力と権威があるのです。

Ⅳ:神の愛を知り、神に仕える
 この主イエスを通して示された神の愛を知った者だけが、イエス・キリストを「この私の救い主」と信じて、「主よ」と呼び掛けることが出来るのです。そして、この主イエスによって新しい命を与えられる時に、人はこの世の苦しみと悲惨に満ちた現実の中で、しかし「主に仕える者」として立ち上がらせていただくことが出来るのです。

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