2024年02月18日 朝の礼拝「キリストに従う」

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2024年02月18日 朝の礼拝「キリストに従う」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 8章18節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:18 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
8:19 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
8:20 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
8:21 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
8:22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 8章18節~22節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:イエスに従いたいと願った人々
 前回の終りで、ご自分のところに連れて来られた病人たちを癒し、悪霊を追い出した主イエスの周りに、大勢の人が集まって来て取り囲むと、主イエスは弟子たちに、舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に行くように命じられました。28節には、その向こう岸は「ガダラ人(異邦人)の地方」であったと記されています。
 するとここで、一人の律法学者が、主イエスのもとに近寄ってきて、次のように申し出ます。『「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」』ところが、その彼の申し出に対して主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と答えて、色よい返事をされませんでした。一体なぜでしょうか。
 確かにこの律法学者が示した献身の決意は、大変立派なものであります。しかし問題はその決意が、本当のところはどれ程確かなものであったのかという事です。恐らくこの律法学者は、この人の弟子になれば、自分も同じように人々から尊敬を集めて、名声を得ることが出来る、と考えたのではないでしょうか。彼は「自分のために」主イエスの弟子になろうとしたのです。しかし、その律法学者に主イエスは、弟子としての覚悟を問われたのです。
 この律法学者に対する主イエスの問い掛けは、私たちにとっても決して無関係ではありません。私たちの信仰生活の目的が、自分が利益を得るということであれば、その信仰は遅かれ早かれ躓くことになるでしょう。なぜなら、主イエスに従うという道は、いつでも自分が得をするとは限らないからです。むしろ主イエスを信じるが故に、様々な困難に出会い、苦しまなければならないという場面が、現実の信仰生活には少なくありません。特にキリスト者の極端に少ないこの日本で、しかも地域の繋がりが強い地方において、信仰生活を守っていくということには、常に様々な戦いが伴います。
 自分の利益を求めて、自分が得をすることが目的の信仰は、そのような現実の信仰生活に起きる信仰の戦いや問題にぶつかる時に、それを乗り越えて戦い抜くということが困難になります。主イエスはこの時、「キリストに従う」ということの厳しさを理解せず、楽観的に捉えていた律法学者の心の内を見抜かれて、弟子の道の厳しさを語られたのです。 

Ⅱ:「人の子」の辛く厳しい歩み
 この律法学者に対する答えの中で、主イエスは、ご自分のことを「人の子」と呼んでおられます。主イエスがご自分を「人の子」と言われる時、それはダニエル書に登場する「人の子(=メシア)」と、ご自分を重ね合わせておられるのです。
 そして、その約束のメシア「人の子」である自分には、この地上において心休らいで休息できるような安息の場所はどこにもないと述べておられるのです。世の人々からは決して受け入れられず、またご自分の弟子たちからも裏切られ、やがて来る十字架において、自分が父なる神様からも見捨てられなければならない。そのような孤独な道のりを、たった一人で歩み抜かれた「人の子」、それがイエス・キリストというお方です。そして、そのキリストにみ跡に従うことは、決して楽な道ではありません。むしろそれは、キリストと同じように、私たちもこの世から分かたれて、寄留者、旅人となって地上の生涯を生きる者となるという事なのです。


Ⅲ:キリストの権威に従って立つ
 さて、二番目に登場するのは、21節で「父親の葬りに行かせてほしい」と願った弟子です。律法では、近親者が亡くなった場合、とりわけ親が亡くなった場合には、子どもがその遺体を丁重に葬るということは、安息日の規程よりも優先するとされました。ところが主イエスは、その弟子の願いに対して、『「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」』と告げて、父親の葬りよりも自分に従う事を優先するように求めたのです。死んだ父親を葬りに行くという事は、人間として最も大切なことですし、それ以外にも、私たちの人生には、私たちがやらなければならない事柄が数多くあります。そしてそれらを優先させていくなら、知らず知らずの内に「主に従う」ということは二の次、三の次になってしまうでしょう。
 しかし主イエスは、あなたがたキリストの弟子が、何よりも優先して、真っ先に行わなければならない、のは私に従って来る事なのだと言われるのです。それはたとえ親が亡くなっても、葬儀より礼拝や伝道を優先しなければならないと言っているのではありません。「主に従う」という第一のことを第一とする生き方においてこそ、本当の意味で家族を愛し、大切にするということが出来るし、本当の意味で、この世の価値感や自分の欲望からも自由になって、真に価値あるものを大切にして生きることが出来るのです。

 「狐には巣穴があり、野の鳥にも巣がある」と言われているように、私たちにもこの地上の生涯において、自分が頼りにしているものや、拠り所としている場所があります。キリストの弟子になるという事は、自分にとっての安住の地を離れて、キリストのみを頼りとして向こう岸(苦難と戦いが待っている場所)へと旅立つということなのです。それは自分自身の決意や信仰によっては、到底不可能です。それはただ、「私に従いなさい」という主イエスの言葉を聞いた者だけが出来る事です。「人の子」である主イエスの言葉には、罪人である私たちを憐れんでくださり、真の弟子として立ち上がらせて、向こう岸へと旅立たせることが出来る権威があるのです。

Ⅳ:キリストに従う道は、キリストと共に歩む道
 そして、弟子たちが、自分たちの家を、安住の地を離れて、異邦人の地に旅立つために乗り込んだ舟には、主イエスが彼らに先だって乗っておられたのです。「私に従いなさい」という主イエスの言葉に従い時に、それは単に厳しいだけの、孤独で寂しい旅路に一人で放り出されるのではありません。主イエスに従って生きる、この地上の生涯の旅路は、私たちといつも共にいてくださる人の子、神の御子と共に歩んで行く、本当の喜びと幸福と平安があるのです。そして同じように、主イエスの言葉に従って、立ち上がらされた愛する兄弟姉妹と、共に手を取り合って、励まし合いながら歩んで行く喜びの旅路なのです。

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