Ⅰ:最後の災いと出エジプトの実現
前回、前々回と、エジプトに対して神様が下された九つの災いを、順番に見て参りました。
しかしファラオは、これらの災いに遭ってもなお、心を頑なにして、イスラエルの民を去らせようとはしませんでした。その頑なだったファラオの態度が一変したのが、最後の災いとしてくだされた「国中の初子が撃たれる(つまり死ぬ)」という「死の災い」です。この神の一撃は、エジプトのファラオから戦争捕虜の初子に至るまで、更には家畜の初子にまで及びました。そこで、これまで頑なにモーセらの要求を拒み続けていたファラオも、ついに彼らの要求をすべて聞き入れて、イスラエルの民を去らせることに同意します。それどころか、ファラオは彼らをせきたてるようにして、エジプトから出て行くように求めたのです。ここではもはや、最初の『私は主など知らないし、イスラエルを去らせはしない』と豪語していた、あのファラオの姿はどこにもありません。エジプトの現人神であるファラオとの対決は、イスラエルの民の信じる真の神の完全勝利に終わったのです。
こうして、数百年の長きに渡ってエジプトの奴隷として苦しめられてきたイスラエルの民の長かった闇の時代は終りを告げ、「出エジプト」という神の救いが実現したのです。イスラエル民族にとって、この「出エジプト」という体験は、強烈な成功体験として民族の記憶に残ることになり、彼らの存在価値を証明する出来事として、子孫へと受け継がれていくことになります。
Ⅱ:過越祭と除酵祭
そして、その事のために大きな役割を果たしたのが、今日の12章1節から20節で規定されてる「過越の祭」と呼ばれるお祭りでした。あの、エジプトの全ての初子が撃たれたその晩、神様はイスラエルの人々に、小羊を屠って食べ、その血を、家の入口の二本の柱と鴨居に塗るように命じられました。その小羊の血が目印となって、神の災いがイスラエルの家を襲うことはありませんでした。
さらにこの過越祭の規定と合わせて、ここにはもう一つの「除酵祭」と呼ばれる祭りの起源が記されています。これは過越の小羊を屠って食べる際に、それと一緒にパン種(イースト菌)を入れないパンと、苦菜を沿えて食べるようにという命令に由来しています。酵母を入れずに焼いたパンは、ビスケットや乾パンのような、平ぺったくて固いパンになります。神様が一夜にしてエジプトの初子を撃たれた後、イスラエルの民は急遽、エジプトを去ることが決まったために、旅の途中の食事の用意をする暇もなく出発しなければならず、パン種を加えて発酵させるような時間的な余裕はありませんでした。この事からも、この出エジプトという出来事が、イスラエルの人々も予想していなかった、急転直下の出来事であったということがよくわかります。出エジプトは、イスラエルの人々が何か自分たちで計画を立てたり、努力をして実現した事柄ではなくて、彼らにとってもある意味で、思いもよらない形で実現した突然の出来事だった訳です。
過越祭、あるいは除酵祭は、この出エジプトが人間の力によってではなく、神の恵みと力によって実現した救いの御業であることを覚え、この神に対する信頼と感謝を新たするために、世々にわたって守るようにと命じられているのです。
Ⅲ:私たちの過越の羊となられたキリスト
それではこれらの祭りの規定は、私たちキリスト教会にとっては、一体どんな意味があるのでしょうか。
今日の新約聖書朗読は、コリントの信徒への手紙一の言葉をお読みしました。そこでパウロは、彼らが自分自身を誇りとして、自己満足し、罪に向き合うことをしていない態度を戒めるために、パン種のたとえを用いて説明しています。『あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。』
私たちは、何の前触れもなくいきなり誰かを殺したり、人の物を盗んだりして、犯罪に手を染めることはありません。小さなパン種がパン全体を大きく膨らませるように、最初は心の中の小さな罪だったものが、やがて周囲の人を傷つけて不幸にする、大きな罪へと膨らんでいくのです。コリント教会はまさにそのように、自分たちの心の中にある僅かなら驕り高ぶりの心を放置していたために、やがて教会の外にいる人々よりもひどい、不品行が生じることになったのです。
しかしそれではどうなのでしょうか。私たちは教会の中で起こる僅かな罪も見逃さないように、互いを監視し合い、裁き合わなければならないのでしょうか。「古いパン種(7節)」とは、コリント教会の人々がキリスト者となる前の生き方、肉の人としての生き方や考え方のことです。ここでパウロは、今日の出エジプト記にある過越祭(除酵祭)を引き合いに出して、あなたがたの罪の過越の小羊として、あの十字架の上で屠られ、命を捧げられたイエス・キリストの血によって、あなたがたに対する罪の裁きと死は、もうあなたがたを過ぎ越したのだ、と述べているのです。
そして、そうであれば、私たちはそのキリストによって罪の古いパン種を取り除かれた「新しい練り粉」のままで、純粋で真実なパンとして、共にこのキリストによる過越しを喜び祝おうではないかとパウロは呼び掛けるのです。それこそが、パウロがコリント教会に願っている「過ぎ越しの守り方」なのです。
Ⅳ:私たちの過越祭
私たちは今、私たちの罪の贖いのための過越の小羊となって下さった、主イエスの十字架の御業とみ苦しみとを覚えるためのレントの期間を過ごしています。しかも、私たちキリスト者の犠牲の小羊となられた主イエスは、単に私たちに死の災いを過ぎこさせるだけではなくて、あのイースターの朝、死から甦られたお方です。そしてご自分に従う者にも、死を超えて復活の体と永遠の命をお与えになることがお出来になるお方なのです。
皆さんが毎週教会に集まって御言葉を聞き、主イエスの十字架と復活を覚える、この主の日の礼拝こそが、私たちキリスト者にとっての新しい過越祭に他なりません。私たち一人一人はなお、いまだに罪を犯し、古いパン種を抱えたまま生きています。しかしそのような私たちがなお、この主の日の礼拝を通して、確かにこの私にも、過越の小羊であるキリストの血が注がれていることを確かめることが出来るのです。
そしてその神の救いの恵みによる罪の赦しをいただいて、古いパン種を取り除かれた新しい真実のパンとして、私たちはこの礼拝の場から、それぞれの生活の場へと、主にある希望を持って送り出されていくのです。