2024年03月03日 朝の礼拝「嵐の中の教会」

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2024年03月03日 朝の礼拝「嵐の中の教会」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 8章23節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
8:24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
8:26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 8章23節~27節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:嵐の中の私たち
 今日の23節で主イエスに従った弟子たちの中には、元々この湖で漁師をしていた者たちもいました。彼らは、このガリラヤ湖のことを誰よりもよく知っていましたし、舟の操縦にも自信があったはずです。しかもこの時、湖は波風もなく、大変穏やかな凪の状態でした。ですから弟子たちは、恐らく何の迷いや恐れもなく、主イエスが乗っておられる舟に乗り込んだのではないかと思います。ところが、彼らが舟をこぎ出すとすぐに湖に強い風が吹き始めます。波は大揺れに揺れて、主イエスと弟子たちが乗っていた舟は、波にのまれそうになってしまいます。弟子たちは、主イエスの命令に従ったばかりに、この時災難に見舞われたのです。
 今日の箇所で弟子たちを襲った嵐や大波は、病気や災難などの人生で遭遇する試練や困難の象徴であると理解することも出来るでしょう。しかしこの嵐や大波は、弟子たちが主イエスの言葉に従って舟に乗らなければ、遭わずに済んだ災難です。ですからそれは単に、誰もが遭遇する病気や不幸のことだけを表しているのではありません。ここで弟子たちが遭遇しているのは、「私に従ってきなさい」という主イエスの言葉に従った者だけが経験する「信仰の試練」を表しているのです。ですから問題は、病気や災難といった試練そのものではありません。なぜなら、信仰者であろうとなかろうと、それらの試練にいつか必ず遭遇するからです。私たち信仰者にとっての問題は、それらの試練の中にあって、神の救いが一向に実現せず、神が私と共にいて下さるという確信が揺るがされるということなのです。

Ⅱ:嵐の中の教会
 今日のお話の中で弟子たちを困惑させたのは、嵐そのものはもちろん、嵐で湖に投げ出されそうになっている自分たちを後目に、主イエスが眠っておられたということではなかったでしょうか。その様子を見た弟子たちは思わず、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言って、主イエスをゆり起こして、助けを求めたのです。この時の弟子たちの言葉は、マルコによる福音書では「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という、主イエスに対する非難と怒りの感情が含まれた表現になっています。恐らくそれが弟子たちの正直な気持ちだったのでしょう。
 私たちにとって、家庭も仕事もすべてが上手くいっていて、教会生活も充実している、そういう凪の時には、喜んで信仰生活を送ることはそれ程難しくありません。しかし、私たちの信仰生活は、いつもそのような「凪」の状態であるとは限りません。私たちの信仰の歩みには、時に大風が吹いてきて、大波が私たちに覆いかぶさってくるような「嵐の日」があるのです。そして、そういう嵐の中で湖に漂う小舟のように、右往左往して苦しんでいる私たちに、神様はしかし何もして下さらない。まるで居眠りでもしているかのように、助けの手を差し伸べることも、問題を解決することもなさらない。それは正に、信仰者でなければ味わうことのない「信仰の試練」です。
 そういう意味では、あの人は敬虔で信仰深いから大丈夫と、安心することは出来ません。むしろ、神様に真剣に期待している真面目な信仰者ほど、その期待が裏切られたと感じた時に、その反動で心が折れてしまう危険性を持っているのです。そして多くの聖書注解者は、今日のお話に出てくる「舟」は、「教会」を暗示していると理解して来ました。このマタイ福音書が書かれた時代の教会は正に、ここに出てくる小さな舟と同じように、吹けば飛ぶような小さな集団でした。教会は主イエスを救い主と信じるが故に、周りから白い目で見られ、迫害を受けなければならなかったのです。マタイはその小さく弱く、迫害に苦しんでいる教会と、嵐に襲われて、今にもひっくり返りそうになっている小舟を重ね合わせて、この場面を描いているのです。

Ⅲ:嵐の中の信仰
 そしてこの時、嵐に襲われて流されている舟の上で、しかし主イエスは眠っておられたとマタイは記しています。そこで聖書において「眠る(深く眠る)」ということは、神様に対する深い信頼を表す表現としてよく用いられる表現でもあります(たとえば詩編3編6節など)。私たちは、心に何か大きな不安や心配事を抱えている時には、ぐっすり眠れないものです。ですから、主イエスが嵐の中でも、横たわってぐっすりと眠ることが出来たのは、このお方が神を心から信頼して、安心しておられたからに他なりません。そこで、慌ててご自分を起こして助けを求める弟子たちに対して、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と述べて、弟子たちをたしなめられたのです。「信仰の薄い者」という言葉は、直訳すれば「信仰の小さい者」という言葉です。弟子たちはこの時、必死になって主イエスを揺り起こして、助けを求めました。そして主イエスは、その弟子たちの願いに対して、信仰の小さいお前たちの願いは聞かないとは言われません。彼らの求めに応じて、起き上がって風と湖を叱りつけて、嵐を沈めてくださったのです。ですからそのように、嵐の中で必死に主イエスに助けを求めて揺り起こすことも一つの信仰の姿です。ただしそれは「小さな信仰」であると、主イエスは言われるのです。
 それでは、「大きな信仰」とはどのようなものでしょうか。それは主イエスが神に信頼して、嵐の中で眠っておられたのと同じように、神に信頼して平安の内に眠る、という信仰なのではないでしょうか。今日の箇所で眠っておられた主イエスは、しかしやがて十字架の死を前にしてゲッセマネで祈られた時は、世を徹して、苦しみ悶えながら神に祈り続けました。(そして皮肉にも、今度は弟子たちが、その場で居眠りをしていました。)その信仰の戦いを勝ち抜いて、完全な勝利を手にされた主イエスが、私たちと共にいて下さり、私たちに襲い掛かる信仰の試練を共に戦ってくださるのです。その主イエスに信頼し、安心して安らぐこと、それが「主にある平安」であり、「大きい信仰」なのではないでしょうか。
 
Ⅳ:私たちの船に乗り込んでくださるイエス
 しかし問題は信仰の大きい、小さいではありません。ある説教者は、本当は私たちが主イエスに従って舟に乗ったのではなくて、私たちが乗っている舟に、主イエスが乗り込んできてくださったのだと語っています。この世の嵐に、何より死と世の終わりの裁きという嵐に耐えることの出来ない私たちの小さな舟に、風や湖をもお言葉一つで従わせることが出来る権威を持っておられるお方、すなわち神であられるお方が一緒に乗って下さったのです。それが人となって地上に来てくださったイエス・キリストというお方なのです。嵐を鎮めることがお出来になるイエスが私たちに船に共に乗っておられるということです。たとえ私たちの信仰は小さくても、しかしその私たちの舟にも主が共にいてくださる、私たちの呼びかけに答えて下さる、そこにこそ私たちキリストの弟子とされた者たちの、平安と喜びがあるのです。

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