2024年03月10日 朝の礼拝「悪の力に打ち勝つ権威」

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2024年03月10日 朝の礼拝「悪の力に打ち勝つ権威」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 8章28節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
8:30 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。
8:31 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
8:32 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
8:33 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。
8:34 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 8章28節~34節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:イエスの権威を示す奇跡
 8,9章で語られている奇跡では、主イエスの持っておられる権威について明らかにするということが、一つの大きな主題となっています。最初の三つの奇跡では、主イエスの病を癒す権威が、前回の嵐を沈める奇跡では「自然を支配する権威」が明らかにされています。そういう視点で見るならば、今日の箇所で示されているのは、主イエスの超自然的なもの(霊的なもの)を支配する権威であると言えます。更にこの後の箇所を少し先取りすると、この後の9章では主イエスの罪を赦す権威と死を打ち破る権威が示されることになります。そこでもしこういう権威を持っておられるお方がいるとすれば、それはもうただの人間ではなく、神でしかありえません。マタイ福音書はこれらの奇跡物語を通して、このお方が、正しく神(神の子)であるということを読者に示そうとしているのです。 

Ⅱ:悪霊に脅かされている人間
 今日の箇所で、悪霊に取りつかれた二人の男性の様子について、マタイ福音書は二つのことを報告しています。
 一つ目は、この悪霊に憑りつかれた男性たちが、墓場に住んでいたということです。墓場というのは死んだ人を葬るための場所であって、人間が日常生活を送るような場所ではありません。そして第二に、彼らは非常に狂暴で、彼らがいたために誰もその墓場がある道を通ることが出来ませんでした。汚れた霊の力によって、彼らはもはや、家族や友人たちと共に生活することは出来ず、生きている人たちからは離れて、死人たちと共に墓場で生きるしかありませんでした。そして人々の方も彼らを恐れて、誰もこの場所には近付こうとはしなかったのです。墓場は、いわば死の象徴でもありますが、この悪霊に憑りつかれた男性たちは、家族からも、社会からも切り離されて、死んだも同然の状態に置かれていたのです。
 現代において、今日のお話に出てくるような「悪霊に憑りつかれた人」を目にする機会はほとんどありません。しかし私たちの社会においても、彼らと同じように家族からも社会からも受け入れられず、周囲の人々に対して心を閉ざし、社会との健全な関りを持つことが出来ない人たち、他者との関係をうまく築くことが出来ずに、孤独の中で苦しんでいる人たちがいるのではないでしょうか。そして他人に対する劣等感や優越感から誰かを攻撃してしまったり、他者に対して心を閉ざし、孤独の殻の中に閉じこもってしまう心の弱さを、私たちもまたどこかに持っているのではないでしょうか。悪霊は今も、私たちのそのような心の弱さの隙につけこんで、私たちを健全な人間関係から引き離し、何より神様との正しい関係から引き離して、墓場へ引きずり込もうと攻撃してくるのです。

Ⅲ:神の御子の圧倒的な勝利
 今日の箇所では、そういう悪霊の人間に対する圧倒的な力が示されています。マルコ福音書では、この時男性に憑りついていた悪霊の名前が「レギオン(三千~六千人以上の兵士で構成されたローマ軍の部隊のこと)」であったということが明らかにされています。それ程多くの汚れた霊が、たった二人の男性に憑りついて支配していたのです。そのような悪霊の力に襲われる時に、私たちは到底それに対抗することは出来ません。今日の箇所に出てくる悪霊に憑りつかれた男性たちの姿は、まさにそのように悪霊の強大な力によって打ち倒され、支配されている人々の姿なのです。
 しかし今朝の箇所は、悪霊の人間に対する圧倒的な力を描く一方で、その悪霊に勝利する神の御子の姿をも描いています。主イエスがこの墓場に近付くと、悪霊はそれに気が付いて「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」と叫んでいます。「まだその時ではない」という言葉の「その時」とは、「世の終わりの裁きの時」のことです。
 悪霊は、目の前にいるお方が神の子であるということも、そしてその神の子が来られる終りの日に、自分たちは神によって滅ぼされるということも、よく知っていました。しかし今はまだ、その時がまだ来ていないはずのに、神の御子が自分たちの前に突然現れたので恐れをなしてパニックを起こしたのです。

 そこで悪霊は、そこからから遠く離れた場所にいた豚の群れを指さして、自分たちを追い出すなら、あの豚の群れの中に追い出して欲しいと願います。豚というのは、旧約聖書において汚れたと動物とされいます。そのユダヤ人たちが触れたがらない汚れた動物、しかも遠く離れた場所にいる豚の群れに乗り移れば、主イエスから逃れられると悪霊たちは考えたのです。そこで、主イエスがそれを許されると悪霊たちは直ちに、その豚の群れに乗り移りますが、すると、その豚の群れが突然走り出して、崖下の湖へなだれ込んで行ったのです。そして湖でおぼれ死んだ豚の群れもろとも、悪霊たちも滅ぼされてしまったのです。ここには、悪霊に対する神の御子の完全な勝利が示されています。
 主イエスこそ、人間関係が壊れて孤独な殻の中に閉じこもっている、墓場のような私たちの心の中に入ってきて下さって、私たちを悪霊の支配から解き放つことの出来るお方です。そして、私たちがいるべき本当の場所を回復してくださるお方なのです。そしてそれは、神の御子の尊い十字架の犠牲によって成し遂げられたのです。そしてそこに私たち信仰者の希望があるのです。

Ⅳ:真の楽観主義者として生きる
 今私たちが生きている時代は、将来に明るい見通しを持つことが困難な時代です。そのような、誰もが未来に対して悲観的な思いを抱いている時代にあって、しかし私たち信仰者は基本的に楽観主義者として生きていく者なのです。しかもそれは、目の前の現実から目を逸らしてお花畑を空想するような、無責任な楽観主義とは違います。私たちは、目の前で起こっている現実をしっかりと見つめて、私たち自身が持っている心の弱さも素直に認めた上で、しかしなお希望を失わずに生きる真の楽観主義者なのです。その私たちの明るさの源は、今日の箇所に示されている主イエスの権威にあります。たとえ今の時代がどれ程悪の力によって支配され、闇に覆われている時代であったとしても、その悪の力に完全に勝利する権威と力を持っておられる神の御子が、私と共にいてくださると信じる信仰によって、キリスト者はいつの時代にあっても希望を失わずに、勝利の確信をもって、明るく、軽やかに生きることが出来るのです。

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