2025年02月26日 朝の礼拝「喜んで神に近づこう」

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2025年02月26日 朝の礼拝「喜んで神に近づこう」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 19章1節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:1 イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。
19:2 彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。
19:3 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。
19:4 あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。
19:5 今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
19:6 あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
19:7 モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。
19:8 民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。モーセが民の言葉を主に取り次ぐと、
19:9 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。
19:10 主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、
19:11 三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。
19:12 民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。
19:13 その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」
19:14 モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、
19:15 民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と言った。
19:16 三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。
19:17 しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。
19:18 シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
19:19 角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
19:20 主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。
19:21 主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。
19:22 また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」
19:23 モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」
19:24 主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」
19:25 モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 19章1節~25節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:アブラハム契約からシナイ契約へ
 今日の19章はいよいよ、イスラエルの民がシナイ山に到着して、そこで神から律法を授けられる場面が描かれています。そしてここから最後の40章まではすべて、シナイ山で起こった出来事です。そのことからもシナイ山における律法の授与という出来事が出エジプト記の(あるいは旧約聖書の)クライマックスであると言うことが出来ます。
 今日の箇所で神は、ご自分の民に律法を授けられるにあたって「契約」という言葉を使っておられます。聖書における「契約」の意味は、旧約聖書のサムエル記に出てくるヨナタンとダビデとの契約によく表れています。それは、私たちが思い浮かべるようなビジネスライクな契約とはまったく違います。むしろ、たとえ自分の身が滅ぼされようとも相手のために真実を尽くし続けるという「友情の誓い」という表現が相応しいものです。
 そして聖書に出てくる契約で忘れてはならないのが「アブラハム契約」です。神はそのアブラハムとの間に立てられた契約に基づいて子孫であるイスラエルの民を救い出されたのです。そして今日の箇所でそのイスラエルの民自身と契約を結んで、アブラハム契約を新たな形で更新しようとしておられるのです。

Ⅱ:福音としての律法
 これからイスラエルと新たに契約を結ぶにあたって、神はご自分がイスラエルの人々になさった救いの御業を思い起こすように言われます。ですから、イスラエルは律法を守ったから神の民に選ばれたのではありません。神はまず、奴隷の軛からご自分の民を救い出されたのです。そしてその後で律法をお与えになられたのです。その意味で律法もまた、神が「恵み」としてくださるものであり、「福音」に他ならないのです。
 そこで、モーセが民に神の言葉を伝えると、彼らは自らの意志で、神との間に契約を結び、神の戒めに従うという誓いを立てたのです。そこで神は、彼らと契約を結ぶために三日後にシナイ山においてモーセと会見すると告げられました。そしてシナイ山の周りに境界線を設けて、誰も近づいてはならないと命じ、更に二日間、身を清めて、神との契約に備えるようにお命じになったのです。
 神がこれから結ぼうとしておられる契約はモーセ個人とではなく、イスラエルの民全体との間に結ばれる契約です。ですから一人一人が契約の担い手であることを自覚して、神の民となるための備えをしなければならないのです。

Ⅲ:キリストにあって神に近づく幸い
 そのように、私たちが神に対する惧れをもって礼拝に与ることは大切なことですが、主の日の礼拝は私たちが恐れによって神に近づくことが出来ない様な、息が詰まるような場所ではありません。主の日はむしろ、私たちが日々の重荷を神のみ前に降ろして、神のみ前に安らぎを得る日です。そして新しい勇気と力を与えられて送り出されていく場所であるはずです。
 今日の16節以下にも、神がシナイ山に降られた時の様子が記されていますが、そこには民が恐れ惑う様子が描かれています。またその様子をヘブライ人の手紙では、民が「山に近づく者は誰であれ殺されなければならない」という命令に耐えられなかったと記しています。またモーセですら、その光景を見て「わたしはおびえ、震えている」と言って恐れたとも記しています。
 人は本来、その生まれつきの罪の性質の故に、誰も聖なる神の前に立つことは出来ません。また神の姿を仰ぎ見ることも出来ません。神がご自分の民の指導者として立てられたモーセであっても、それは同じです。人間である以上、モーセもまた神の前に裸の自分で立つということは出来ないのです。
  旧約のイスラエルの民と同じように、神との契約に背き続けている私たちが、今日この礼拝に来ることが出来たのは、私たちと神との間に足って下さる真の大祭司がおられるからです。イエス・キリストという大祭司が、私たちの罪を全てご自分の十字架で清めてくださったので、私たちはこうして神のみ前に出て、神を礼拝し、神の御言葉を親しく聞くことが許されているのです。それは決して当たり前のことではありません。それはモーセを始めとする旧約の聖徒たちが想像も出来ない驚くような恵みなのです。

Ⅳ:そのままで神のもとに来よ
 このキリストによる十字架の贖い以外の方法によっては、誰も神のみ前に立つことは出来ません。この神の驚くべき御業と、神の深い憐れみを、畏れと驚きを持って見上げて、そしてそれ以上の感謝と喜びを神に捧げる場所、それが私たちの主の日の礼拝なのです。
 もし皆さんが今日、心に何か罪の咎めを覚えているのなら、キリストにあって、その罪を背負ったまま神の前に出ればよいのです。そして悔い改めの心を与えてくださいと祈ればよいのです。
心の中に怒りや悲しみを抱えているのなら、そのやり場のない感情を抱えたまま神のみ前に出ればよいのです。キリストがそれを受けとめてくださいます。もし何か大きな苦しみや試練を抱えて恐れに囚われているのなら、その弱さを抱えたままで神のもとに来ればよいのです。キリストがその私たちの弱さをもあるがままに受けとめてくださいます。
 私たちはそのままで神のみ前に来て、罪深い私たちをなおも愛し、神のみ前へと招いてくださるキリストの御業に感謝して、喜びを持って神を褒め称えるのです。

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