Ⅰ:アブラハム契約からシナイ契約へ
今日の19章はいよいよ、イスラエルの民がシナイ山に到着して、そこで神から律法を授けられる場面が描かれています。そしてここから最後の40章まではすべて、シナイ山で起こった出来事です。そのことからもシナイ山における律法の授与という出来事が出エジプト記の(あるいは旧約聖書の)クライマックスであると言うことが出来ます。
今日の箇所で神は、ご自分の民に律法を授けられるにあたって「契約」という言葉を使っておられます。聖書における「契約」の意味は、旧約聖書のサムエル記に出てくるヨナタンとダビデとの契約によく表れています。それは、私たちが思い浮かべるようなビジネスライクな契約とはまったく違います。むしろ、たとえ自分の身が滅ぼされようとも相手のために真実を尽くし続けるという「友情の誓い」という表現が相応しいものです。
そして聖書に出てくる契約で忘れてはならないのが「アブラハム契約」です。神はそのアブラハムとの間に立てられた契約に基づいて子孫であるイスラエルの民を救い出されたのです。そして今日の箇所でそのイスラエルの民自身と契約を結んで、アブラハム契約を新たな形で更新しようとしておられるのです。
Ⅱ:福音としての律法
これからイスラエルと新たに契約を結ぶにあたって、神はご自分がイスラエルの人々になさった救いの御業を思い起こすように言われます。ですから、イスラエルは律法を守ったから神の民に選ばれたのではありません。神はまず、奴隷の軛からご自分の民を救い出されたのです。そしてその後で律法をお与えになられたのです。その意味で律法もまた、神が「恵み」としてくださるものであり、「福音」に他ならないのです。
そこで、モーセが民に神の言葉を伝えると、彼らは自らの意志で、神との間に契約を結び、神の戒めに従うという誓いを立てたのです。そこで神は、彼らと契約を結ぶために三日後にシナイ山においてモーセと会見すると告げられました。そしてシナイ山の周りに境界線を設けて、誰も近づいてはならないと命じ、更に二日間、身を清めて、神との契約に備えるようにお命じになったのです。
神がこれから結ぼうとしておられる契約はモーセ個人とではなく、イスラエルの民全体との間に結ばれる契約です。ですから一人一人が契約の担い手であることを自覚して、神の民となるための備えをしなければならないのです。
Ⅲ:キリストにあって神に近づく幸い
そのように、私たちが神に対する惧れをもって礼拝に与ることは大切なことですが、主の日の礼拝は私たちが恐れによって神に近づくことが出来ない様な、息が詰まるような場所ではありません。主の日はむしろ、私たちが日々の重荷を神のみ前に降ろして、神のみ前に安らぎを得る日です。そして新しい勇気と力を与えられて送り出されていく場所であるはずです。
今日の16節以下にも、神がシナイ山に降られた時の様子が記されていますが、そこには民が恐れ惑う様子が描かれています。またその様子をヘブライ人の手紙では、民が「山に近づく者は誰であれ殺されなければならない」という命令に耐えられなかったと記しています。またモーセですら、その光景を見て「わたしはおびえ、震えている」と言って恐れたとも記しています。
人は本来、その生まれつきの罪の性質の故に、誰も聖なる神の前に立つことは出来ません。また神の姿を仰ぎ見ることも出来ません。神がご自分の民の指導者として立てられたモーセであっても、それは同じです。人間である以上、モーセもまた神の前に裸の自分で立つということは出来ないのです。
旧約のイスラエルの民と同じように、神との契約に背き続けている私たちが、今日この礼拝に来ることが出来たのは、私たちと神との間に足って下さる真の大祭司がおられるからです。イエス・キリストという大祭司が、私たちの罪を全てご自分の十字架で清めてくださったので、私たちはこうして神のみ前に出て、神を礼拝し、神の御言葉を親しく聞くことが許されているのです。それは決して当たり前のことではありません。それはモーセを始めとする旧約の聖徒たちが想像も出来ない驚くような恵みなのです。
Ⅳ:そのままで神のもとに来よ
このキリストによる十字架の贖い以外の方法によっては、誰も神のみ前に立つことは出来ません。この神の驚くべき御業と、神の深い憐れみを、畏れと驚きを持って見上げて、そしてそれ以上の感謝と喜びを神に捧げる場所、それが私たちの主の日の礼拝なのです。
もし皆さんが今日、心に何か罪の咎めを覚えているのなら、キリストにあって、その罪を背負ったまま神の前に出ればよいのです。そして悔い改めの心を与えてくださいと祈ればよいのです。
心の中に怒りや悲しみを抱えているのなら、そのやり場のない感情を抱えたまま神のみ前に出ればよいのです。キリストがそれを受けとめてくださいます。もし何か大きな苦しみや試練を抱えて恐れに囚われているのなら、その弱さを抱えたままで神のもとに来ればよいのです。キリストがその私たちの弱さをもあるがままに受けとめてくださいます。
私たちはそのままで神のみ前に来て、罪深い私たちをなおも愛し、神のみ前へと招いてくださるキリストの御業に感謝して、喜びを持って神を褒め称えるのです。