Ⅰ:三つの隔ての壁
今日の箇所でパウロが語っている「教会の外の世界」とはどのような場所なのかを一言で言えば「敵意という隔ての壁が存在する世界」です。
第一の隔ての壁は、神と人の間を分ける隔ての壁です。この町は人々の道徳的な乱れが横行している町であり、また女神アルテミスを初めとする異教の神々が崇められている異教の町でした。
ですから、その町に建てられた教会の信徒は多くが異邦人であり、元々は他の異教の神々を拝み、魔術やまじないにふけっていた人々でした。その頃、彼らと神の間には超えることの出来ない隔ての壁が立ちはだかっていたのです。
そして第二の隔ての壁は、ユダヤ人と異邦人間に立てられた壁です。ユダヤ人は自分たちこそが、神に選ばれた特別な民「神の民」であると信じており、神を知らず、神の律法を持たない異邦人を「汚れた存在」として軽蔑していました。そして彼らが与えられた律法は本来、神が御自分の民と他の異教の民がまじり合うことがないようにするために与えられた「隔ての壁」でもありました。しかし、そのような神のご配慮にも関わらず、ユダヤ人たちはやがて異教の先住民の風習に染まっていき、神の教えから離れていきました。そこで、本来は神の民と他の民族を分ける隔ての壁だった律法が、今度はユダヤ人自身を神から遠ざける、第三の「隔ての壁」となってしまったのです。
Ⅱ:二つのものを一つにするキリスト
そしてその異邦人、ユダヤ人それぞれの間に立ちはだかっていた隔ての壁を取り除いてくださったのがキリストの十字架の御業なのです。キリストは、異邦人をユダヤ人に改宗させることによってではなく、反対にユダヤ人を異邦人と交わらせることによってでもなく、両者を「キリスト者」という全く新しい存在に造り変えることによって、神との平和を実現し、また両者の間に立ちはだかっていた敵意という隔ての壁をも取り除いてくださったのです。教会と言う場所は、神と人の、そして人と人の間にある隔ての壁が打ち壊されて、異なる二つのものがキリストの体として一つとされる場所なのです。
そこでパウロは、あなたがたはこの世の人に対しては「よそ者」「寄留者」かも知れないが、「教会」においては「外国人」でも「寄留者」でもなく皆「聖なる民に属する者」であり、「神の家族なのだ」と述べています。
それぞれに性格や環境、考え方や価値観が異なる者たちが、キリストにあって一つに結び合わされて、一つの神の民、神の家族として生きることが出来る場所、人が安心して居られる場所、それが教会の本来あるべき姿なのです。
Ⅲ:キリストにあって一つになる
今私たちの社会には「敵意という隔ての壁」がいたるところに立ちはだかっていて、それが急速に、そしてかつてないほど高く、厚くなっているのではないかと感じます。あるいは、私たちの日常生活を見渡すときにも、やはりそこにもまた人間関係を阻害し、隔てている「隔ての壁」が存在しているのではないでしょうか。
しかし、教会という場所はそうであってはならないのです。現実に教会に集まってくる者たちは異なる事情や背景を持ち、性格や考え方も違います。しかしそういう考え方や個性の違いを無視して、無理矢理一つの方向を向かせようしても上手くいきません。
教会は、皆がキリストに結び合わされたキリストの民であるという一点においてのみ、一致することが出来ます。パウロはそのこと教会の土台となる礎石は『キリスト・イエスご自身』であるという原則によって言い表しています。使徒にしろ預言者にしろ、その他のどのような人間による働きも、すべてはキリストという土台石の上に建てられており、キリストによって支えられているのです。
たとえその教会が人間的にはどんなに小さく頼りなく見えるとしても、そこにキリストがいてくださるなら、そこは人が神と出会い、神に近付くことが出来る場所であり、一人一人が大切にされて、本当の自分として安らげる場所となるのです。