Ⅰ:荒野の祝宴の後で
前回は、荒野で開かれた主イエスの祝宴の様子をご一緒に読みました。
その祝宴は、人里離れ
た寂しい荒野で、しかもたった五つのパンと二匹の魚しかない貧しい祝宴でしたが、しかしその祝宴には、主イエスご自身がいてくださるという特別な祝福がありました。
ですから、そこにいた人々はきっと、その主イエスの祝宴にずっといたいと願ったでしょう。
しかし、この時主イエスは、人々が食事を食べて満ち足りると、彼らを解散させてそれぞれの家へと帰らせられ、弟子たちを「強いて」舟に乗り込ませて別行動をとらせたのです。
この荒野での祝宴は、言ってみればやがて信仰者が与ることになる「天の国の祝宴」の姿をに示すモデルです。そしてそれは、今私たちが与っている主の日の礼拝についても同じことが言えます。
しかし、私たちが地上において与っている教会の祝宴は、あくまで前味であって、ずっとそこに留まり続けるということは出来ません。そして私たちが礼拝が終わって帰って行く世という場所は、時に大きな嵐に遭遇する厳しい場所なのです。
Ⅱ:嵐の湖での出来事
今日のお話で、強いられて湖へこぎ出した弟子たちも、ガリラヤ湖の真ん中で嵐に見舞われて、立ち往生することになりました。一晩中波と風に苦しめられた弟子たちは、明け方近くになって湖の上を歩いて近付いて来る主イエスの姿を見つけたのです。
この時、主イエスが湖の上を歩いて弟子たちのもとに来られたのは、ご自分が単なる預言者や人間の救い主ではなく、神に等しい力を持つ「神の御子」であるということを弟子たちに示そうとされたのです。
そこで、自分たちの方に近付いて来るのが主イエスだということに気が付いた弟子たちは、驚くとともに、愛する師の姿を見て安堵したことでしょう。そこでまだ興奮冷めやらぬ弟子たちの一人であるペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と願ったのです。このペトロの願いを聞き入れた主イエスが「来なさい」と命じられると、ペトロは大胆にも湖に一歩踏み出して、主イエスに向かって歩き始めたのです。
ところが、途中まで進んだところで、彼は吹き付ける強い風に改めて気が付き、恐れを抱いたために彼の体は湖に沈み始めて溺れかけてしまうのです。そこでペトロが「主よ、助けてください」と叫ぶと、主イエスはすぐにペトロの腕を掴まれて、彼を湖から引き上げてくださいました。そしてペトロに対して「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語り掛けられたのです。
Ⅲ:ペトロとは何者か
ペトロという人物は十二弟子の中で最も頻繁に福音書に登場する弟子の一人です。ペトロという人物は、ある時は主イエスに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」という素晴らしい信仰告白の言葉を口にしたかと思えば、今日の箇所のように主イエスに信頼し続けることが出来ずに主イエスから目を逸らしてしまうような弱さも持っている人物です。彼は主イエスに対する信仰が「ない」訳ではありません。ただ持っている信仰が「小さい」ので、嵐の中でキリストに目を注ぎ続けることが出来ないのです。そしてそのように、信仰と不信仰の間で揺れ動き続けるペトロの姿は、私たち自身の姿他ならないのです。
そして今日のペトロの姿が私たち自身の姿だとすれば、私たちには希望があります。たとえ私たちの信仰が(ペトロと同じように)からし種一粒にも満たないような「小さな信仰」だったとしても、しかし主イエスはその小さな信仰しか持たなかったペトロを救われたのと同じように、私たちをも見捨てることはなさらないからです。
そうであれば、私たちがたとえ人生の嵐に出会って、そこで風や波を見て恐れ、疑いの心を抱いたとしても、そのことは私たちにとって失敗とはなりえないのです。もし私たちが信仰において失敗を犯すことがあるとすれば、それは私たちが嵐の中でキリストに向かって「歩み出さない」ということです。そして「主よ、助けてください」と叫ばないことこそ、私たちにとっての失敗なのです。
Ⅳ:恐れの海の中でイエスに出会う
私たちは本当に信仰の小さな者です。人生の嵐に遭えば、すぐに恐れや疑いの心を起こして、キリストから目を逸らせてしまう「小さな信仰」しか持っていません。しかし私たちと同じように小さな信仰の持ち主であったペトロや弟子たちを、主イエスは「本当に、あなたは神の子です」と告白する者へと変えてくださったのです。そこに私たちの希望と喜びがあります。
信仰者となって教会と言う舟に乗り込み、信仰の人生という大海原へ漕ぎ出した私たちは、きっとこれからも嵐に出会い前に進むことが出来なくなることがあるでしょう。キリストから目を逸らして恐れや疑いの湖に沈みかけてしまうこともあるでしょう。だからこそ私たちには、その小さな信仰しか持たない私たちをも憐れんで、手を伸ばして恐れと疑いの海から救い出すことの出来る救い主が必要なのです。そして恐れと疑いの中で「本当に、あなたは神の子です」と告白する者へと変えてくださる神の御子との出会いが必要なのです。