2025年02月02日 朝の礼拝「満ち足り、分け合う喜び」

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2025年02月02日 朝の礼拝「満ち足り、分け合う喜び」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 14章13節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 14章13節~21節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:五千人給食の奇跡
 洗礼者ヨハネの死を知った主イエスは、「舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれ」ました。ところが、主イエスがいないことに気が付いた群衆たちは、すぐに後を追いかけます。そこで、ご自分を追って来た群衆をご覧になった主イエスは、彼らを「深く憐れまれ」、人々の病を癒されたのです。
そうこうしている内に、日も暮れかかって来て、弟子たちは人々の食事の心配をし始めるました。21節にはこの時集まっていた群衆の数が男性だけでおよそ五千人であったと記されています。恐らく女性や子どもも入れれば倍の一万人以上の人が主イエスのもとに集まっていたと考えられます。しかし、この時弟子たちの手元あったのはたった「五つのパンと二匹の魚」だけでした。そこで弟子たちは、日が暮れる前に群衆たちを解散させて、各自で食事を取らせて欲しいと願い出たのです。
 ところが主イエスは、『行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』とお答えになりました。そして弟子たちが持っていたパンと魚を持って来させると、賛美の祈りをしてパンと魚を弟子たちにお渡しになりました。それを弟子たちが群衆に配ると、なぜかそのパンと魚は無くならずに、その場にいたすべての人が満腹しました。しかも残ったパンを集めると十二の籠が一杯になったのです。

Ⅱ:「どこに」ではなく「誰」のところへ行くか
 今日のマタイ福音書とマルコ福音書では、この奇跡が行われた場所の地名は明らかせず「人里離れた場所」とだけ記しています。この言葉は「荒野」と訳される言葉です。そこで「荒野」で人々をパンで養う出来事と言えば、旧約聖書の出エジプト記の「天からのマナ」の奇跡を思い浮かべるかも知れません。あるいは列王記下の、預言者エリシャが二十個のパンで百人の人々を満腹させたという奇跡を思い起こすかも知れません。ですから、今日のこの五千人給食の奇跡は、単に「みんなで持っている物を分け合いましょう」という道徳を教えているのではなくて、イエスというお方がモーセやエリシャのような真の預言者であり、また真の命のパンをお与えになる「神の御子」であることを示す「しるし」なのです。
 そして、15節の『群衆を解散させてください』という言葉を直訳しますと『群衆を立ち去らせるために解散させてください』となります。更に17節でも『ここにはパン五つと魚二匹しかありません。』とあり、弟子たちが、荒野という「場所」を問題にしていることがわかります。それに対する主イエスの答えは、これも原文を直訳しますと『彼らを立ち去らせる必要はない』、『それらをここに、私に、持ってきなさい』という文章になります。
 弟子たちにとって荒野は、僅かな食べ物を見つけることさえ難しい場所であり、群衆を満ちたらせるためには、もっと豊かな場所に行かなければならないと考えたのです。しかし、それに対して主イエスは「あなたがたは他の場所に行く必要はない。私のところにそれを持って来なさい」と述べられたのです。問題は「どこ」に行くかという場所の問題ではありません。「誰の」ところに行くかが大切なのです。



Ⅲ:二つの祝宴
 マタイ14章には、二つのパーティーの様子が描かれていました。一つはヘロデの祝宴、そしてもう一つは荒野で開かれた主イエスの祝宴です。 
 最初のヘロデの誕生を祝う祝宴は、豪華な宮殿で行われ、権力や財力の人々が招かれていました。そして豪華な食事やお酒が振舞われ、彼らはお腹いっぱいに満ち足りていたでしょう。ところが、そのように人間の目には豪華で豊かに見えるヘロデの祝宴で起こった出来事というのは目を覆いたくなるような恐ろしい出来事でした。そこには愛や寛容や労りはなく、憎しみと怒りが渦巻いていました。
 一方で、主イエスの祝宴が開かれた場所は、野外の人里離れた寂しい荒野でした。そこに集まって来た人々も貧しい人々でした。そこには豪華な食事やお酒もなく、たった五つのパンと二匹の魚しか用意されていませんでした。しかし、そこにはヘロデの豪華な祝宴にはない、特別な喜びと楽しみがありました。その祝宴にはイエス・キリストというお方がおられ、この御方の、飼い主のない羊のように傷つき、さ迷っている人々に対する深い愛と憐みがありました。そしてそれは人々を豊かに満ちたらせて、なお有り余るほどに豊かに注がれていたのです。
 私たちの人生がどんなに物質的に豊かで、物事が順調に進んでいるように見えるとしても、そこにキリストがおられなければ、本当の喜びや楽しみはありません。反対に、たとえ私たちが、人里離れた、寂しい荒野に一人立たされているような、そういう辛い厳しい現実の中に置かれているとしても、そこにキリストがいてくださるなら、その人生の荒野においてキリストの愛と恵みは私たちを満ちたらせて、なお有り余るほどに豊かに注がれているのです。そうであれば、私たちは人生の救いや慰めを求めて、キリストがおられない場所に出掛けて行く必要はないのです。

Ⅳ:神の恵みを分かち合うために
 そして、キリストの愛と恵みを、最も豊かに経験することが出来る場所が教会という場なのです。教会はこの世的に見れば、弱く力のない、執るに足らない存在かも知れません。しかし、その弱くて小さな教会という場所こそ、私たちを本当の意味で満ちたらせることが出来るキリストに出会うことの出来る場所なのです。私たちは今日も礼拝を通して、御言葉と聖餐の恵みを頂きました。そしてこれから、その主の恵みを人々に分かち合うために、それぞれの生活の場へと遣わされていくのです。
 私たち自身が持っている、とるに足らないと思えるような賜物やどんな小さな働きも、主御自身がそれを豊かに用いてくださるなら、その私たちの働きは何倍にも豊かな実を結んで、人々を満ちたらせるのです。

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