Ⅰ:共に主を礼拝しよう
今年2025年に役員の皆様と新たに掲げた教会標語「共に主を礼拝しよう~友となって生きよう」では、大きく二つのテーマが掲げられています。一つ目のテーマは「礼拝」です。
「教会の命は礼拝にある」という言葉は、中会五十周年の恵那教会の言葉にある言葉です。教会の営みの中心にあるのは「礼拝」ですから、「教会の命は礼拝にある」という言葉自体は間違っていません。
しかし、この言葉には、その命である礼拝に「自分」が与っていることに満足して終わってしまう危険が潜んでいるのではないでしょうか。
もちろん教会への関わり方というのは人それぞれですから、なるべく人と関わらずに、静かに礼拝だけを守りたいと思って教会に来られる方の希望は、最大限に尊重されなければならないと思います。ただし、そのような教会生活は、神がもっと豊かに与えようとしておわれる恵みを、受け取り損なっているという意味で「もったいない」と思うのです。
そして「教会の命は礼拝にある」という言葉に潜んでいるもう一つの落とし穴は、様々な事情で礼拝に来ることが出来ない人がこの言葉からは抜け落ちてしまう危険があるということです。
そこで、今年の教会標語を考える中で、そういう何らかの理由で教会の交わりから離れてしまった方々に対して何か繋がりを持ち続ける努力を出来ないかという意見が出されました。そこで最初の「共に主を礼拝しよう」という標語に、後半の「友となって生きよう」という標語を加えて、一つの教会標語にすることにしました。
Ⅱ:中風の男性の癒しの奇跡
そして標語聖句として役員の方々が選んだのは、マルコによる福音書2章5節の言葉です。
主イエスはある時、ガリラヤ宣教の拠点としておられたカファルナウムの町にある「家」に戻られました。すると、主イエスが戻られたという噂を聞きつけた大勢の人々がその家に押しかけてきたのです。この時、主イエスのもとを訪れた人々の多くは、その教えを聞くために集まって来ていました(2節)。そこで、「家」はすぐに人で一杯になって、戸の外にまで人々が溢れている状態になりました。
そこに連れて来られたのが中風の病を負っていた男性です。彼は病のために自分で立って歩くということは出来ませんでした。そこでこの男性の四人の友人は、主イエスに癒してもらうために、彼をここまで連れて来たのです。ところが、主イエスの教えを聞くために集まった大勢の人に阻まれて、彼らは主イエスに近付くことが出来ませんでした。
Ⅲ:友人たちの信仰に目を留められたイエス
この時主イエスのもとに集まって来た人々は、自分が主イエスの教えを聞きたいと思うあまり、自分たちが中風の男性が主イエスに近付こうとしているのに気が付かず、彼のために道を開けてあげる余裕を持っていなかったのです。
そのような群衆と対照的なのが、中風の男性の友人たちです。聖書はここで、中風の男性自身の信仰がどうであったかということについては何も記していません。ここで聖書が注目しているのは、非常識な行動をとってまで病人を主イエスにもとに連れていこうとした友人たちの行動と信仰です。主イエスなら彼を癒すことが出来ると信じて、非常識と思えるような行動をとってまで、彼を主イエスのもとに連れて来こうとした友人たちの信仰と行動をお認めになった主イエスは、この中風の男性の病を癒されたのです。
それはもちろん、本人の信仰がどうでも良いということではありません。しかし、自分の決断で主イエスのもとに来ることが出来ない人々を、何とか救いたいと願い、そのために行動した四人の友人たちの信仰に私たちは学びたいと思うのです。そして、私たち自身も誰かの「友」となって生きたいと願うのです。そしてこの「友」という言葉に、具体的にどのような人を含めることが出来るのかによって、この教会の姿は大きく変わっていくのではないでしょうか。
Ⅳ:友となって生きよう
しかしそれは何も、何か特別な愛の奉仕や社会的な大きな働きをするということだけではありません。たとえば初めて教会に来られた方に声を掛けて、隣に座って礼拝を導いてあげる。これなら私たちがすぐに出来ることです。そして礼拝後に笑顔で「今日はよく来てくださいました」と一声を掛ける。これだけでも、その人の教会に対する印象というのは変わるのではないでしょうか。
私たちが自分の視野を今よりもう少し広げて、今隣に座っているこの人も、口に出さないだけで、自分と同じように何か悩みを抱えてこの場所にいるのかも知れないと想像してみるだけでも礼拝の風景はいつもと変わってくるかも知れません。そして会堂で顔を見ることが出来ない人のことも心に覚えることが出来たら、教会の交わりはもっと暖かく豊かなものにになっていくのではないでしょうか。
礼拝という人間的の営みに命があるのではなく、その礼拝にキリストがおられる時にそこは富ん等に命を注がれる場所となるのです。そしてそのようにキリストの命に繋がれた私たちは、今度は私たち自身が誰かの「友」となって生きるように導かれていくのです。
キリストを中心とする教会の小さな愛の交わりの輪が広がって、この教会が神の愛に満ち溢れた暖かい交わりがある、ますます魅力ある教会に成長することが出来るように、共に主を礼拝し、世の人の友となって生きていきたいと願います。