Ⅰ:洗礼者ヨハネとヘロデ
ある日、主イエスの評判を聞いたヘロデ・アンティパス(以下ヘロデ)は、自分の家来たちに向かって「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ」と述べました。ここで洗礼者ヨハネが、すでに殺されていたという事実と、ヘロデがヨハネを捕らえた理由が明らかにされています。ヘロデがヨハネを捕らえたのは、彼が自分と妻へロディアの結婚を批判したということが原因でした。このへロディアはもともとは、ヘロデの兄弟の妻であり、まだ生きている兄弟の妻と結婚することは旧約の律法に違反することでした。そこでヨハネは、このヘロデとへロディアの結婚が不法であると非難したのです。ヘロデはヨハネを疎ましく思う一方で、彼を聖なる人と認め、その教えに当惑しながらも、喜んで耳を傾けていました(マルコ6章)。更にユダヤの民衆の多くが預言者と認めていたヨハネを殺して、民衆の支持を失うことを恐れて、彼を処刑せず牢に閉じ込めていたのです。
Ⅱ:誕生祝いの席での出来事
ところがある日、ヘロデの誕生日祝いの席でへロディアの娘(ヘロデの義理の娘)サロメが、来賓の人々の前に立って踊りを披露したのです。ヘロデは、その踊りを見て喜び、彼女に「願うものは何でも与える」と誓って約束したのです。するとこれをヨハネを亡き者にする絶好の機会と考えた母へロディアの入れ知恵によって、彼女は父親に「洗礼者ヨハネの首を盆にのせて、この場でください」と願い出たのです。9節には、その願いを聞いたヘロデが「心を痛めた」ことが記されています。彼は、内心正しい人と認めていたヨハネを殺すことに罪の意識を覚えていたのです。もちろん彼を殺してユダヤ人の支持を失うことを恐れる思いもあったでしょう。
しかし一方で、彼は「何でも願いを叶える」と人々の前で誓った言葉を翻して、宴席の客や家臣の信用を失うことも恐れたのです。悩んだ末に彼は、目の前にいる列席者に対して面目を保つことを優先しました。ヘロデは娘の願いを聞き入れて、ヨハネの首を跳ねさせたのです。
これら一連の出来事には、ヘロデという人物の持っている優柔不断で日和見主義という性格が良く表れています。彼はガリラヤ地方を治める領主であり、自らの家臣や民衆を従わせることが出来る権力と、与えようと思うものを与える財力を持っていました。ところが、そのような権力者であるヘロデという人物を一皮むけば、常に人の目や評判を恐れて、人の喜ぶ方へと流されていく弱くて無力な人物の姿が浮かび上がってきます。
そのヨハネを処刑した日から、ヘロデは心に罪の意識を覚えていたのかも知れません。そこで主イエスの評判を聞いた時に、自らが命を奪った洗礼者ヨハネの事を思い起こしたのです。そしてこの時ヘロデは、洗礼者ヨハネの生まれ変わりである主イエスを殺して、自らの罪の意識、良心の呵責を葬ってしまおうと考えたのです。結局彼は最後まで、神の声に耳を塞ぎ続けたのです。
Ⅲ:神を畏れた洗礼者ヨハネとキリスト
そのようなヘロデの生き方や態度と、まったく対照的だったのが、洗礼者ヨハネの生き方です。彼は権力者であるヘロデに対しても臆することなく、その罪をはっきりと指摘し続けました。最後まで人ではなく、神のみを恐れて、神の御声に従う道を選び取る生き方を貫いたのです。
しかし、そのようなヨハネでさえも、一度は主イエスに躓いて「来るべき方はあなたですか」と弟子を通して主イエスに尋ねたのです。そこで主イエスはヨハネの弟子たちに、ご自分のなさっていることと、それを通して人々に起こっている変化をヨハネに報告するようにと答えられました。その言葉によってもう一度主イエスというお方を見つめ直したヨハネは、最後まで神を恐れて生きることが出来たのです。
その洗礼者ヨハネの死は、これから主イエス御自身に待ち受けている悲劇を指し示す出来事でもありました。そしてその十字架の死に至るまで、神の御心に従い続けた主イエスこそ、本当の意味で、人を恐れることなく、また自分の体面や名誉を守ろうともせずに、ただ神だけを恐れて、神のみに従い通したお方です。そしてその故に、神はこの御方を死の支配に打ち勝たせて、天に高く上げられて、神の右の座につく栄光を与えられたのです。主イエスはヨハネの生まれ変わりではなく、このお方こそ唯一、死から生き返ったお方であり、この世のあらゆる恐れから私たちを自由にすることが出来る真の王なのです。
Ⅳ:恐れの中でキリストを見上げる
私たちも生きていく中で、神の言葉と人間の言葉のどちらに従うかを選択しなければならない場面に遭遇することがあります。そしてそういう時に、私たちの心の中にも神の言葉に従うことへの疑いと恐れが生じるのです。そしてそのように、私たちの心が恐れに支配される時に、私たちはイエスというお方がみえなくなり、「イエスとは何者か」という問いの答えが分からなくなっているのではないでしょうか。
そうであれば、恐れから逃れる方法はただ一つ、御言葉を通してもう一度、イエス・キリストというお方を見つめるということしかありません。
世のあらゆる権力や暴力を恐れずに神に従い続けたキリスト。病や貧しさに苦しむ人々を癒されたキリスト。孤独と悲しみの中にいる者と共に生き、慰められたキリスト。弱く小さな罪人を愛し抜いて十字架で命まで捧げられたキリスト。そしてその十字架の死を打ち破って甦り、死に勝利してくださったキリスト。
御言葉を通して、この救い主の姿を示され続け、この御方を見上げ続けることによって、私たちは恐れから解放されて、神をおそれる本当に自由な生き方を選び取ることが出来るようになるのです。