Ⅰ:ナザレの人々の驚きとつまづき
主イエスのたとえ話は前回で終り、主イエスはそこを去って、ご自分が育ったナザレの村へ戻られました。そして会堂に入ってこれまでと同じように、天の国について教え始められたのです。そして力ある奇跡をも行われました。そこでその主イエスの姿にナザレの人々は驚いて、『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。』と言い合いました。ところが、その驚きに続く彼らの反応は、主イエスに対する好意的なものではありませんでした。
ここからまず分かることは、主イエスの教えや奇跡に「驚く」ということが、そのまま信仰に繋がるのではないということです。今日のナザレの人々のように、神の言葉や御業に対する驚きや感動が、神を信じる信仰に至るのではなく、躓きに終わってしまうこともあるからです。
大切なのは、神の教えや御業に「驚く」、その先にあるのです。
Ⅱ:つまづきの原因
ではナザレの人々は主イエスの何に「つまづいた」のでしょうか。
55節、56節には主イエスの職業や家族関係について記されています。そこで人々は主イエスを「大工の息子」と呼んでいます。この「大工」とは父親のヨセフのことです。そして恐らく主イエスも、以前はこのナザレで大工の仕事をしていたのだと思われます。そこで、「大工の息子」という言葉に続けて、人々は母マリアや兄弟たちの名を挙げています。そのようにナザレの村の人々は、主イエスの両親がどういう人で、兄弟や姉妹が何人いて・・・ということを誰よりもよく知っていたのです。ですから彼らは、「このイエスという人物は何者なのか」という問いを抱くことはなかったのです。そしてそのことが、つまり「自分たちはイエスの事を良く知っている」という思いが彼らのつまづきとなったのです。
「つまづく」と訳されている言葉は、英語の「スキャンダル」という言葉の語源にもなった言葉です。スキャンダルとは、ある人に抱いている評価やイメージが崩れてしまうことです。この時のナザレの人々は「大工の息子・・・」という、彼らがこれまで主イエスに対して持っていたイメージと、今目の前にいて、人々に神の国の教えを語り、様々な奇跡を行う主イエスの姿が結びつかず、古いイエスのイメージが崩されようとしていたのです。ところが、そこで彼らは、自分の中にある古い主イエスのイメージを壊されることを拒みました。むしろ反対に目の前にいる救い主として立っておられる主イエスの姿の方を受け入れることを否定したのです。
Ⅲ:全ての人がつまづく
このつまづきは、今、キリスト者として生きる私たちにとっても決して関係のない話ではありません。私たちもまた、自分の中に「神とは」「救い主とは」という理想像を持っていて、その理想と異なる御言葉や現実を否定したり、自分が理解しやすい都合の良い教えに変えてしまう誘惑に陥ることもあるのではないでしょうか。しかし、むしろそういう私たちが自分の頭で思い描いている「神」とか「「救い」を、聖書の言葉によって打ち崩されて、本当の神の姿、救い主の姿を示されて、新しい価値観に目を開かれていくこと、それが本当に御言葉を聞いて悟るということなのです。
今日のこの出来事は、主イエスが育ったナザレの村で起こった出来事として描かれています。 しかし今日のマタイ福音書では「ナザレ」という固有名詞は出てきません。なぜなら、このような人々のつまづきが起こったのは、ナザレだけではなかったからです。主イエスに出会った人は皆、自らが思い描く救い主の姿に固執して、主イエスを本当の意味で信じ、受け入れることが出来なかったのです。
Ⅳ:御言葉によって変えられていく
そして、そういう愚かで頑なな罪人を新しく生まれ変わらせて、神のみ許へと立ち帰らせるために、キリストは人となってこの地上に来てくださり、十字架の苦しみを耐え忍のんでくださったのです。それこそが聖書が教える救い主の姿です。その真の救い主の姿は、私たちの人間的な知恵や理解によっては、決して知ることの出来ない、人間の理解や想像を遥かに超えた「隠された神の神秘」なのです。
しかし、今日ここにいる、私たちはその隠された神秘を、今朝もこの主の日の礼拝を通して、聖霊によって今まさに示されているのです。今日だけではありません。毎週の礼拝毎に私たちは、御言葉を通して神の御子の十字架と復活を示され続けることによって、自らの中に持っている古いイメージを壊されて「イエスとは何者か」という問いに対して「あなたは私の救い主です。私の神です」と告白することが出来る者へと変えられていくのです。