Ⅰ:隠された宝と高価な真珠のたとえ
13章の最後に語れている三つのたとえを見てみましょう。
最初のたとえは、「畑に隠された宝のたとえ話」です。ある日、畑に隠された宝を偶然見つけた人が、自分の持っている持ち物をすべて一つ残らず売り払って、そのお金で畑を買い取って、隠されていた宝を手に入れました。
二つ目のたとえは、「高価な真珠を見つけた商人のたとえ」です。彼も同じように、自分の持っている物をすべて売り払って、高価な一粒の真珠を買って自分の物としました。
今日のお話の中で示されている、天の国を見い出した者がとった行動は、この「天の国」という宝には、すべてを全ても惜しくない価値があるという事を物語っています。私たちは、心の救いや平安を得たいと願っていますが、それを得るために、他の何もかもを犠牲にしなければならないと言われると、ためらいを感じてしまうのではないでしょうか。しかし、今日のこのたとえ話を通して主イエスが教えておられるのは、そういう人間の側の決断や努力の大切さではありません。今日のたとえ話を通して主イエスは、天の国の持つ唯一無二の価値について語っておられるのです。この宝は、それを見い出した人が他のものすべてを手放したとしても手に入れたいと願うほどに人の心を捉えて、行動させる価値を持っているのです。
Ⅱ:天の国の持つ唯一無二の価値
世の中には多くの宗教や哲学があり、それらの中には、この世で私たちが生きていく上で役に立つような知恵や諭しを与えてくれるものも少なくありません。しかし聖書が語る福音とは、そういう人間が小っぽけな頭で考え出したような幸福や喜びとは全く異なるものです。それは、私たち人間には想像することも、理解することも出来ない様な、驚きと喜びをもたらすものです。他と比べることの出来ない本物の価値ある宝であり、すべてのものを売り払ってでも手に入れたいと願わずにはおられない、この世にただ一つの価値を持つ宝なのです。
ですから、その宝は、私たち自身が自分の努力や熱意によって見つけ出したり、生み出したり出来るものではありません。また、たとえ私たちが自分の持っているものをすべて犠牲にしたとしても、それで買い取ることが出来る宝でもないのです。この「天の国」という唯一無二の宝に見合う代金を支払う力があるのは、神ただお一人です。そして、神が私たちに代わって支払ってくださった代価が、神の御子であるイエス・キリストなのです。私たちは天の国の宝を、自分の努力で見つけた訳ではありませんし、それに見合う犠牲を自分で払ったのでもありません。私たちはただ、神の私たちに対する愛と憐れみの故に、無償の恵みとしてその宝を与えられ、代価を支払うことなくそれを手に入れることが出来たのです。
Ⅲ:天の国の学者たち
三つ目の「地引網のたとえ」は、「毒麦のたとえ」と基本的には同じことを述べています。
ここには、幸運にも天の国の宝を見い出すことが出来た人と、最後までそれを見つける事が出来なかった人、あるいはその価値に気が付くことが出来なかった人とが辿る結末について描かれています。そして、これらのたとえをすべて語り終えられた主イエスは、最後に弟子たちに「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」とお尋ねになりました。そこで弟子たちは、その主イエスの問いに「分かりました」と答えたのです。
そこで主イエスは弟子たちに対して、「だから、天の国のことを学んだ(律法)学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」と述べるのです。弟子たちはもちろん、本物の律法学者のように専門的な教育を受けた訳ではありません。しかしその彼らを主イエスは「天の国の事を学んだ学者」と呼ばれるのです。なぜなら、天の国の秘密は、人間の知恵や知識によっては決して悟ることが出来ない、「隠された宝」だからです。その代わりに、神がそれを示されるなら、どんなに無学で知恵のないものであっても、天の国について理解することが出来るのです。
今日のたとえ話で主イエスは、ご自分が選んだ弟子たちこそ、自分の努力によるのでもなく、知恵や修練によるのでもなく、ただ神の愛と憐みによって、この隠された宝の本物の価値を示されて、それを手に入れることが許されている幸いな者たちなのだ、と述べておられるのです。
Ⅳ:豊かに与えられ、惜しみなく差し出す
そしてそのように、天の国について知ることが許された弟子たちは、自分と言う倉の中から、新しいものも古いものも自由に取り出すことが出来る家の主人に似ていると言われています。つまりキリスト者は、聖書の御言葉から、その時々の状況に応じて相応しい教えや知恵を導き出すことが出来、またそれを実際の生活の中で用いることが出来るようになるのです。聖書の福音には、世のあらゆる人の、あらゆる状況において働くことが出来る、豊かな内容が記されており、この尽きぬ命の泉から、豊かに汲みだすことが許されている者、それが私たちキリストの弟子、キリストの学者とされている信仰者なのです。ですから私たちは、その命の泉から汲み出した恵みによって、自分自身が満足して終わるのでもなく、それを人に対しても相応しい仕方で伝えることが出来るようになるのです。
今日この礼拝の場にいる私たちこそ、神の憐れみによって、聖書の中に「キリストの福音」と言う真の宝を見出して、それを知ることが許されている幸いな者たちなのです。この新しい年も私たちは、この尽きぬ泉からあふれ出る、命の御言葉に耳を傾け続けて、その宝を惜しみなく人に差し出すことが出来る者とならせていただきたいと願います。