2024年10月13日 朝の礼拝「神の国は来ている」

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2024年10月13日 朝の礼拝「神の国は来ている」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章22節~32節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
12:24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
12:25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
12:26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
12:29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 12章22節~32節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:ベルゼブル論争
 ある時、悪霊に憑りつかれて、目も見えず、口も利けないという、二重の苦しみを背負った男性が主イエスのもとに運ばれてきました。そこで主イエスは、その場でこの男性から悪霊を追い出して、彼を癒されました。すると、この様子を見ていた群衆たちは驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と色めき立ったのです。そこで、その人々の様子を見たファリサイ派の人々は焦りと不安に駆られました。しかし、男性を癒したという事実そのものは認めざるを得ません。ですから、その力は神からではなく、悪霊の頭であるベルゼブル(サタン)から来ているのだと言い張って、主イエスの御業を否定しようとしたのです。 
 しかし、主イエスは彼らの論理的な矛盾を冷静に指摘されます。第一に主イエスは、もし自分がファリサイ派の人々が言うように、悪霊の親玉の力を使って、手下の悪霊を追い出しているのであれば、それはもはや国として立ち行かなくなるだけだ、と述べてファリサイ派の主張が破綻していることを指摘します。そして、もう一つの反論は27節です。実はこの当時、ユダヤ人たちの中にも、「悪霊払い師」たちがいて、ファリサイ派の人々は、その人々が行う悪魔祓いは、神の力によるものとして認めていたのです。それなのに、主イエスの場合にだけ根拠もなく「悪霊の力」と非難するのは矛盾しているではないかと述べて、彼らの自己欺瞞を指摘しているのです。
 
Ⅱ:悪霊に勝たれたキリスト
 しかし、もし主イエスが、神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、それは一人の人がサタンの支配から解放されて、神の支配へと取り戻されたということに他りません。主イエスが悪霊を追い出されるのは、サタンが自分で自分の手下を追い払っているというような「内部分裂」や「自作自演」ではなくて、そこで正に神の国が、サタンの王国に攻め込んできて、その支配の下に囚われている人々を解放するために戦っておられる戦いの最前線なのです。この「私」が、神の国の支配とサタンの支配のどちらがに属するか、その事を巡って主イエスは悪魔との真剣勝負を繰り広げているのです。ただし、この神の国とサタンの国との戦いは、決して一進一退の、拮抗した戦いを繰り広げている訳ではありません。神と悪との戦いは、ある意味で既に決着が着いているのです。
 29節の「強い人」とは、すなわち悪霊の頭であるサタンの事です。「家」はそのサタンの支配する王国のことであると言って良いでしょう。そして「家財道具」と言われているのはサタンに囚われている人々のことです。主イエスは、下っ端の悪魔を一人一人捕えて悪魔の力を少しずつ削ぎ落しているのではなくて、サタンの王国のただ中に押し入って行って、そこで最も強い、悪霊の頭であるサタンの首根っこを抑えて、縛り上げて、そこに囚われている人々を解放されるのです。

Ⅲ:悪霊の力を恐れるよりも
 神の御子がこの地上に来られ、多くの悪霊で苦しむ人々を救い出しておられるということは、つまりキリストがすでに悪魔の親玉の首根っこを押さえていることのしるしなのです。そして最後には十字架と復活によって悪魔の国に対する完全な勝利を得ることが決まっているのです。
 ただし、この神の国と悪魔の国の戦いは霊的な戦いですから、人間の目には見えませんし、目に見える現実との間にはギャップが生じるのです。
しかし、たとえ私たちの目に見える現実には、様々な苦しみや試練があるとしても、それらを含めた全てのことは、悪魔ではなく神のご支配の中で起こっているのです。ですから私たちは、様々な病気や様々な災いを悪霊の仕業だと考えて恐れたり、慌てて悪霊払いに走る必要はないのです。
 私たちにとって悪霊の力を恐れる事よりも大切なことは、神を畏れることです。そして十字架において悪の力に勝利された神の御子を「わたしの主」としてお迎えすることです。
 しかし、その「イエスを主と信じる」という信仰は聖霊によって与えられるものです。そこでその聖霊の働きを否定するなら、人は決してイエスを主と告白することは出来ないのです。今日の最後のところで、主イエスが忠告しておられるのはその事です。
 誤解しない頂きたいのは、この言葉は「他のすべての罪はキリストを信じれば赦されるけれども、聖霊を冒涜する罪を犯した者は、たとえキリストの十字架を信じても未来永劫赦されない」と、言っているのではないということです。ここで言われる「聖霊を冒涜する罪」とは、聖霊の働きを拒み続け、主イエスの十字架による罪の赦しを受け入れようとしない罪のことです。そしてそのように聖霊の働きも主イエスによる罪の赦しをも否定するなら、その人はこの世においても、来るべき新しい世においても、永遠に罪の赦しを得ることは出来ないのです。

Ⅳ:どんな罪も十字架にあって許される
 その意味で私たちもかつては、キリストの救いを拒み、聖霊に背く罪を犯していた者なのではないでしょうか。しかし今や私たちは、聖霊の働きを受け入れてキリストを主と信じて神の支配の下にいれられたのです。ですから私たちは「自分は聖霊を冒涜する罪を犯しているのではないか」と恐れる必要はありません。
 そして、たとえ今はキリストによる救いを受け入れることが出来ない人であっても、いつの日かその人の心に聖霊が外から入って来られる時に、その心はキリストと結びあわされるのです。そしてその時には、「人が犯すどのような罪や冒涜も」、すなわち聖霊に言い逆らい、聖霊を冒涜するような罪も「すべてキリストの十字架によって赦される」のです。悪霊の頭ベルゼブルであろうと、その他の何であろうと、この喜びを私たちから奪い去ることが出来る力は、どこにも存在しないのです。

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