Ⅰ:からし種とパン種のたとえ
24節で主イエスは、「天の国は次のようにたとえられる」という語り出しでを話し始めておられるように、「毒麦」「からし種」「パン種」のたとえはどれも、地上に置ける「天の国」がどのようなものであるかを教えています。
からし種は、一粒の直系が1mmに満たない小さな種ですが、最終的に成長すると2~4m程の高さにまでなるそうですが、このたとえ話の焦点は、畑に蒔かれた時の最初の種の姿と、それがやがて成長した後の姿との落差にあります。天の国もまた、今私たちの目に見えている姿と、将来の姿との間には大きな差があるのです。
「パン種」はパン生地を発酵させるイースト菌のことですが、そのパン種を混ぜる小麦粉の量「三サトン」は、百人分のパンが作れる量です。ですから、ほんの僅かの量のパン種であっても、大量の生地に影響を及ぼすことが出来る力を持っているのです。
そしてこのパン種が持っているもう一つの特徴は、このパン種が生地の中に混ぜられることによって、人の目からは隠されて見えなくなるという点にあります。しかし人の目からは隠されているパン種が、静かに深く生地全体に影響を及ぼしていくのです。天の国もそのように、人々の目からは存在や働きが隠されているけれども、それは静かに深く成長し広がっていくのです。
Ⅱ:豊かに成長する教会
その「からし種」や「パン種」が持つ力の源は、どちらも命を持っているという点にあります。
逆に言えば、命がなければどんなに水や肥料を与えても、種が芽を出し成長するということは起こらないのです。しかし、そこに本物の命が宿っているなら、たとえ今、目に見えている姿が小さく、みすぼらしくても、それはいつの日か大きな実りへと成長していく力を秘めているのです。
日本の教会は、その殆どが小さな集まりです。そして教会員の減少や高齢化といった問題に苦しんでいます。しかし教会にとって大切なことは、会員の数や献金の額といった、目に見える姿によって決まるのではありません。本当に大切なのは、そこに命が宿っているということです。
教会がどんなに小さくて、弱々しいとしても、そこに本物の命が宿っているなら、その教会は、地上の神の国であり、やがて世の終わりの日にそれが完成される時には、今の姿からは想像もできない様な豊かな実りへと成長するのです。
Ⅲ.そこに命があるなら
その教会を成長させる「命」とは、神の御子であるイエス・キリスト御自身のことです。キリストこそ、この地上に真の神の御支配を実現するために、人となって来てくださった一粒のからし種です。クリスマスの夜に汚い臭い家畜小屋に生まれた嬰児は、人々が目を見張るような華々しさも、世の王としての威厳や力もありませんでした。そしてこのお方の生涯全体が、人が目を向けることのない小さな一粒の種として生き、そして死んでいった生涯でした。その小さな一粒の小さな種から、この世界に本当の神の国が実現したのです。そしてその神の国はやがてユダヤ民族を超えて全世界の民へと広がっていき、今の時代を生きている私たちの教会にまで成長し、今もその成長を続けているのです。
たとえ今の現状がどんなに弱く、問題を抱えているとしても、この教会がキリストの命に繋がっている限り、決してしぼんで枯れてしまうということはありません。必ず最後には豊かな実りへと成長し、神の国の民として完成されることが約束されているのです。
Ⅳ.日常の中に隠されている神の国
この毒麦だらけの世界にあって、しかし神は今も確かにこの世界に働きかけておられ、神の国は広がっています。しかし、その事は私たちの目には隠されていて、それを人間の目で見て確かめることは出来ないのです。そしてそこに、私たちの信仰苦しみや闘いが生まれるのです。
この世界を見渡すときに、そこには一体どこに神の国(神の支配)があるのかと問わずにいられない悲惨な現実があります。そして私たちの人生にも苦しみと涙が絶えることがなく、この辛く厳しい現実の中で、どこに神の国、神のご支配を見い出すことが出来るのかと思わずにはいられません。
今日の二つのたとえ話は、その私たちの問いに次のように答えます。「からし種が畑に埋められて見えなくなるように、パン種が粉の中に隠されて分からなくなるように、神の国はあなたがたの何気ない日常の営みの中に隠されている。あなた方はそれぞれの家庭で、職場で、学校で、日々の平凡な暮らしの中において神の国を見出すことが出来る」と。
私たちが日々の平凡な暮らしの中でこの事実を体験し、喜びの日にも、苦難の時にも、この見えない神の国を信仰によって確信することが出来たなら、この地上においてすでに天の国の祝福の中に生かされているのです。