2024年12月15日 朝の礼拝「毒麦と生きる」

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2024年12月15日 朝の礼拝「毒麦と生きる」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 13章24節~30節,36節-40節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

13:36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13:37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
13:41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
13:42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
13:43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 13章24節~30節,36節-40節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:弟子と群衆
 ある人が畑に出て行って、麦の種を蒔きました。ところが、人々が眠っている間に、「敵」がやって来て、その土地に、毒麦の種をこそっり蒔いていきました。敵によって毒麦が蒔かれた事に気が付いた僕たちは、行って毒麦を抜き集めることを畑の主人に申し出ます。しかしこの畑の主人は、刈入れの時までは毒麦もそのままにしておくように命じました。そして刈入れが来ると、毒麦は束にされて火で焼かれ、良い麦だけが倉に納められることになります。これが今日の「毒麦のたとえ話」の内容です。
 そして、36節以下で、主イエスはこのたとえの解き明かしを弟子たちにだけ語っておられます。では、たとえ話の解き明かしを聞くことが出来た弟子たちと群衆の間には、どんな違いがあったのでしょうか。10節や36節には、たとえを聞いた弟子たちが主イエスに近付いたという事が記されています。では「イエスのそばに近寄る」とは、どういう事を指しているのでしょうか。それは一言で言えば、主イエスが語られた言葉を、単なる一般論や教訓話としてではなく、他でもないこの私に向けて神が語っておられる言葉として耳を傾けるという事です。それが、群衆とキリストの弟子を分ける分水嶺となるのです。

Ⅱ:この世界には毒麦が存在する
 では、今日のこの毒麦のたとえをそのような思いで、神が今日、この「私」に語っておられるメッセージとして耳を傾けてみるとしたら、そこからどのようなメッセージを読み取ることが出来るでしょうか。今日は特に三つの事に目を留めたいと思います。
 まず第一に分かることは、私たちが生きているこの世界は、良い麦だけではなく、毒麦が存在する世界であるということです。この世界には、人間の欲望と罪、そして罪によって生み出される諸々の悲惨な現実という毒麦が確かに存在するのです。「教会は社会の縮図である」と言われるように、教会にも人間の罪や悪が生み出す毒麦が存在し、現実の様々な問題を抱えているのです。
 更に、今日のたとえ話を私たち一人一人に当てはめてみるとしたら、私たち自身もまた、良い麦があるとしても、それはほんの僅かであって、殆どは毒麦かも知れません。ですから、今日のたとえ話に出てくる「毒麦」は、決して私たちとは関係のない遠い世界の話ではありません。私たちは今、そういう毒麦が存在する不完全な世界に生きているという厳然たる事実を、このたとえ話は教えてくれるのではないでしょうか。そしてキリスト者は、その事実から目をそらす「夢見る人」であってはいけません。私たちは、この地上の生涯において「毒麦」と生きなければならないという事実を知っている、本当の意味での現実主義者なのです。

Ⅲ:毒麦とは誰のことか
 しかしだからと言って私たちは、この毒麦だらけの世界や教会の現実を目の当たりにして世をはかなむだけの、偽物の現実主義に陥ることもありません。今日のたとえ話を通して私たちが受け留めることの出来る第二のメッセージは、神がやがてこの世界から毒麦を一掃される日が来るということです。そしてその日を目指して、今この地上の生涯を生きていくのが私たちキリスト者のあり方なのです。その意味でキリスト者とは、究極の現実主義者であると同時に、究極の理想主義者でもあるのです。
 そして今日のたとえ話を通して私たちが受け取ることが出来る三つ目のメッセージ、それはその世の終わりの日が来るまでは、私たちにはどれが良い麦で、どれが毒麦なのかは決してわからないという事です。この世界で今起こっている、様々な罪や悪の現実を目の当たりにする時に、私たちは今すぐにでも神が毒麦を一掃してくださることを願うかも知れません。そして時には、自分の手で今すぐ目の前にある畑から「毒麦」を抜き取ってしまいたくなる衝動に駆られることもあるかも知れません。しかし、この畑の主人は言うのです。『毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』と。もちろんそれは、この世界や私たち自身に存在する罪や悪に対して無関心であって良いとか、放置しておいて良いということではありません。しかし、時が来て、麦の穂が完全に実って刈り入れの時を迎えるまで、私たちの目にはどれが毒麦なのか、その最終的な結末はわからないのです。それは神だけがご存じなのです。ですから、今私たちの目に映っている姿だけを見て、この人は良い麦だとか、この人は悪い麦だ、と判断して、その人を排除しようとするなら、私たちは神が大切に育てておられる良い麦を間違って抜き取ってしまうことになるかも知れないのです。この社会はもちろんのこと、そこに生きている一人一人の人間もまた、それは複雑な存在です。ですから、神がすべてを明らかにされる時が来るまでは、何事も焦って性急に判断せず、神の時を静かに忍耐強く待たなければならないのです。

Ⅳ:希望を持って毒麦と生きる
 神のご計画は私たちの理解や想像を超えて遥かに思慮深く、その御心は、私たち人間にはかり知ることは出来ません。神御自身はもちろん、どれが良い麦で、どれが毒麦なのかをご存じの上で、今はまだ毒麦が育つことをも許容しておられるのです。それは終りの日により豊かに良い麦を収穫するためです。今はまだ毒麦に見えるとしても、しかし実は神の愛の中に既に捉えられていて、やがて良い麦を実らせる者へと変えられていく人々が、この世界には確かにいるのです。ですから私たちは、たとえどのような時代の、どのような世界に生きていたとしても、そこで希望を失うことはありません。また、目の前にいる人が、人間の目にはどのような人に見えるとしても、しかし希望を持って忍耐強く、その人に一歩近付いて、神の救いの福音を伝えていくことが出来るのです。そして、私たち自身もまた、いつの日か私たちの内にある毒麦をすべて取り除かれて、よい麦だけが豊かに実る美しい麦畑に変えられることを信じて、私たちは今日も毒麦の中で、しかし希望を持って生きることが出来るのです。

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