2024年12月08日 朝の礼拝「天の国のミステリー」

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2024年12月08日 朝の礼拝「天の国のミステリー」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 13章1節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」
13:10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
13:11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
13:14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
13:15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
13:17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
13:18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
13:19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
13:20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、
13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
13:22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 13章1節~23節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:天の国のミステリー
 13章から「イエスのたとえ話」を集めた新しい段落が始まります。
 普通、私たちがたとえを用いて話すのは、自分が伝えたい事を少しでも分かりやすく相手に伝えるためです。ところが今日の10~17節で主イエスは、「彼らが聞いても悟ることがないようにするため」というまったく正反対の理由を述べておられます。更にイザヤ書6章の預言と主イエスの言葉を受け入れない人々の姿を重ね合わせて、それが旧約で預言されていたことの成就であるとお語りになるのです。
 11節で「秘密」と訳されている言葉は「ミステリオン(ミステリーの語源)」というギリシャ語です。天の国は人々の目からは隠されている「ミステリー」であり、一部の人々しか悟ることの出来ない「秘儀」なのだと主イエスは言われます。ですから、それを悟ることを赦されていない人々には「たとえ」で語られるのです。

Ⅱ:開かれた秘密
 この「天の国の秘密」とは、すなわち神の御心の内に隠されていた救いのご計画のことです。神の御子であるキリストが人として世に来られ、十字架と復活の御業によって罪人の救いを成し遂げられたということ、このキリストを信じる者には罪の赦しと永遠の命が与えられるということ、それが「天の国の秘密」です。
 ですから、今の私たちにとっては、この天の国の秘密は一部の人だけしか知ることが出来ない「ミステリー」ではありません。聖書を開けば、教会に来れば、誰でも聞くことの出来る「開かれた秘密」なのです。
 しかし実際には、同じ礼拝に出席していても、この天の国の秘密を悟ることが出来る人と、最後まで悟らない人に分かれることになります。ですから、天の国の秘密は今もやはり、誰もがその秘密を聞いて悟ることが出来る訳ではありません。
 天の国の秘密は、人間の知恵や理屈を積み重ねることによっては出来ません。神がそれを悟ることを許してくださった人にしか理解することが出来ない「秘儀」「ミステリー」なのです。
 そして、このマタイ福音書では、その天の国の秘密を知ることが許されている者を「弟子」と呼んでいます。そして主イエスは、その弟子たちに向けて『あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。』と祝福の言葉を語り掛けておられるのです。



Ⅲ:種をまく人のたとえ
 ではそのように、天の国の秘密を知ることが許された弟子たちと群衆とでは、一体何が違っているのでしょうか。その事を主イエスが具体的に語っておられるのが、今日の「種をまく人のたとえ」です。このお話は、教会学校でも子どもたちによく取り上げられることからも分かる通り、お話自体は決して難しくはありません。
 そこで私たちは、このたとえ話を読む時に「では、自分はこれら四つの内の、どの土地にあたるだろうか」と考えるのではないでしょうか。もちろん、御言葉を聞いてそれを受け取る私たちの心の状態がどうであるかということは、とても大切なことです。しかし、そもそも種を撒いてくれる人がいなければ、どんな良い土地であっても、花が咲き、実を結ぶということはありません。本当に大切なのは、種がまかれる土地よりも、そこに種を蒔いてくれる人がいるかどうかなのです。今日のお話に出てくる「種を蒔く人」とは、イエス・キリストご自身のことです。そしてこの「種蒔く人」は、良い土地のような心を持つ人にだけ御言葉の種を蒔くのではなく、道端や石地のような心の者たちにもみ言葉を惜しみなく、豊かに蒔いてくださるのです。

Ⅳ:惜しみなく豊かに
 すでに洗礼を受けてキリストの弟子となった私たちの内にもまた、御言葉を聞いてもそれが心に入って来ず、悪の誘惑に蒔けてしまう道端のような心があるのではないでしょうか。
 御言葉を聞いて、その時は喜びや励ましを受けるけれども、目の前に様々な試練や思い煩いが襲ってくる時に、その喜びや感謝はすぐにどこかに吹き飛んでしまうような、石だらけ、茨だらけの土地が、今も、私たちの心にはあるのではないでしょうか。
しかし、そういう御言葉を悟ることに疎く、それを信じることの出来ない石だらけの固い土地のような頑なな私たちの心にも、「種蒔く人」は忍耐強く、惜しみなく、み言葉の種を蒔き続けて下さるのです。そして、その御言葉の種が私たちの内に根を張って、豊かな実を結ぶことが出来るようにしてくださるのもまた、私たち自身の力ではなく、この種蒔く人である主イエスご自身なのです。私たちの心にある道端や、石地や、茨の生えた土地のような心にも、主イエスは飽くことなく御言葉の種を蒔き続けてくださり、聖霊を通してその御言葉を悟らせて下さいます。そして、固い痩せた土地のような心を、良く肥えて、美しい花を咲かせ、豊かな実を実らせることが出来る良い土地へと変えてくださるのです。
 今朝、私たちに蒔かれた御言葉の種は、やがて必ず百倍、六十倍、三十倍という豊かな信仰の実りを私たちにもたらしてくれます。その事を今朝、主イエスは約束してくださっているのです

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