2024年12月01日 朝の礼拝「ここに私の家族がいる」

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2024年12月01日 朝の礼拝「ここに私の家族がいる」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章46節~50節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 12章46節~50節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:イエスと家族
 この章の終わりにあたる今日の箇所では、主イエスと「家族」との関係が取り上げられています。ある時、主イエスが群衆に話しておられる時に、そこに主イエスの母マリアと兄弟たちが訪ねて来ました。今日の箇所では、家族が主イエスを訪れた詳しい理由については明らかにされていません。しかしマルコ福音書では、主イエスが、ファリサイ派や律法学者たちと対立したり、人々から「悪霊に憑りつかれている」と噂されているのを耳にして、家族は心配になって家に連れ戻そうとしたと記されています。
 ところが、主イエスは、自分の母親や弟たちが訪ねてきたという知らせを聞いても会うことを拒まれたのです。なぜでしょうか。その理由を考えるキーワードとなるのが、繰り返し出てくる「外に立っていた」という表現です。「主イエスの外に立つ」とは、主イエスの側に近づこうとせず、その御言葉に聞こうとしないことです。主イエスを自分とは関係のない存在として自分の外側に追いやってしまう「自己中心」の生き方が「主イエスの外に立つ」ということです。主イエスの語る言葉に耳を傾けようとせず、主イエスがしておられる働きが神の霊、すなわち聖霊による働きであるという事を認めようとしなかったという点において、彼らもまたファリサイ派や律法学者たちと同じでした。主イエスの家族もまた、主イエスの「外に立って」、その御言葉に聞こうとはしなかったのです。
 
Ⅱ:血縁の絆を超えた霊の家族
 家族への伝道が難しい一つ理由は、彼らが私たちの普段の弱い部分や罪の部分を、他の人よりもよく知っているからです。私たちの「地の部分」を一番近くで見て知っているのが「家族」という存在です。ですから私たちは、家族が未信者なのは、自分が信仰らしい生き方をしていないからだ、と考えるのではないかと思うのです。
 しかし、今日の箇所を見ますと、そんな風に家族との間に軋轢を抱えて、家族への伝道が上手くいかないという現実を抱えておられたのは、私たちだけではありません。他ならぬ主イエス御自身が、信仰に対する家族の無理解と戦っておられたのです。しかし主イエスはここで、家族との繋がりをすべて否定しておられるのではありません。ヨハネ福音書では、十字架を前にした主イエスの母マリアに対する特別な愛情と配慮を垣間見ることが出来ます。むしろここで主イエスがなさろうとしていることは、血縁上の家族という、この世において最も濃い繋がりよりも、更に深い絆で結ばれているのが、霊的な家族であると明らかにしておられるのです。

Ⅲ:イエスに近付き御言葉に聞く者
 49節で主イエスは、ご自分の弟子たちを指して「わたしの母、わたしの兄弟」と呼んでおられます。この文章を、原文を直訳すれば『彼の手を彼の弟子たちの上に伸ばして言った。』という表現になります。この「相手の上に手を差し伸べる」という行為は、ユダヤにおいては相手を祝福する行為であり、またその人を自らの庇護の下に入れるという事でもあります。ですから「弟子」とは、この主イエスが差し伸べる救いの手の下に近付き、イエスの守りと支えの内に立って生きようとする者のことです。自分の弱さや罪深さを率直に認めて、謙そんに主イエスの救いと憐みを願い求める者が主イエスの弟子の姿です。
 そして、ここで示されているもう一つの弟子の姿が、『天にいるわたしの父の御心を行う者』です。キリストの弟子とは、主イエスの御言葉に聞いて、そしてその御言葉に従って生きようとする者のことです。それは聖書に書かれている教えを、すべて完全に守るという事ではありません。自分が罪深い者であり、不完全な者であることを認めつつ、それでもなお主イエスに従いたいと願い、そして主がそのようにわたしを従う者へと変えてくださるという希望を持って、御言葉に聞き続け、聖霊の助けを願い求め続ける者、それがキリストの弟子の姿なのです。すなわち主イエスを信じて、その御言葉を聞くためにここに集まって来た私たちを指して、主イエスは『「見なさい。これこそ霊によって私と一つとされている本物の家族だ。』と呼び掛けてくださるのです。

Ⅳ:新しい関係を築く道
 今日の箇所で主イエスは、血の繋がりを越えた、新しい神の家族の姿を示されました。もし今、家族が同じ信仰を持ち、共に礼拝し、共に祈ることが出来ているのなら、それは神から与えられている本当に大きな恵みであるという事を、今日の御言葉から覚えたいと思います。そしてもし今、そういう恵みを与えられていないとしても、しかしその事に落胆したり、ましてや自分の不信仰を責めたりする必要はありません。救いは私たちからではなく天から、主イエスを通して上から来るものです。そして誰がいつ、主イエスとの出会いを経験し、その御言葉心を捕らえられて、主イエスを信じる者へと変えられるか、そのことは、私たちには分からないのです。私たちに出来ることは求める者には惜しみなく豊かに与えてくださる主が、いつの日かその私たちの祈りを聞いて、家族との間にあたらあしい関係を与えてくださる日が来る事を信じて、家族の救いのためにあきらめずに忍耐強く祈り続けることです。そして、私たち自身がまず謙遜に自らを低くして主イエスのそばに近づく者とならせて頂きたい、そのために御言葉に聞き続け、御言葉によって自らを打ち砕かれて、主に従って生きる者へ変えられていきたいと願います。

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