Ⅰ:モーセのしゅうとエトロの再登場
18章では、モーセの義理の父にあたるエトロが再び登場して、モーセの妻と二人の息子たちをモーセに引き合わせるために、彼のもとを訪れました。どうやらモーセは、イスラエルの指導者としてファラオと対決するにあたって妻や子どもたちとは別れて生活をしていたようです。神から与えられた使命に答えるためには、それまでの家族との安全で平穏な暮らしというものを、一時的に捨てることが必要だったのです。
もちろん、すべての信仰者に「家族と別れて一人で生きる」ということが求められている訳ではありません。しかし、信仰者となって神の召しに生きるためには、それまで大切にしていた何かを手放すことが必要となるのです。モーセの場合は、それが家族との安全で平穏な暮らしを手放すということだったのです。そしてこのモーセの姿は、正に私たち神に献身した信仰者の姿と重ね合わせることが出来ます。
Ⅱ:モーセの献身と豊かな実り
モーセは、自分の妻と子供たちを連れて来てくれたしゅうとのエトロを出迎えて、丁重にもてなしました。そしてエトロのもとを離れてエジプトに戻ってから今日までの間に、自らが体験した神の御業を義理の父に語り聞かせたのです。そのモーセの証しを聞いたエトロは、イスラエルの神がなさった御業を褒め称え、イスラエルの神こそが真の神であると告白したのです。そしてその彼をモーセの家族だけでなく、イスラエルの民全体が受け入れたのです。これは言ってみれば、未信者であったモーセの義理の父親が救われた瞬間でもあります。モーセは神の召しに応えて、自らの家族との平穏な生活という、自分にとって大切なものを手放したのですが、しかしそのことによって今、失った家族を取り戻すだけでなく、新たに義理の父であるエトロという信仰の家族を得ることが出来たのです。ここには、神に自らを捧げて生きる者に約束されている豊かな祝福の実りがあります。
Ⅲ:神の言葉に聞くために
13節以降には、エトロがモーセとイスラエルの民に対して、重要な助言を与える出来事が語られています。そこでエトロは、人々があらゆる問題をモーセのところに持ち込んで来るのを目にして、「あなたのやり方は良くない」と忠告します。そして民の中から賜物のある人を選んで、彼らを段階的に民のリーダーとして立て、日常的な問題は彼らに裁かせうるようにと忠告したのです。モーセは、この忠告を聞き入れて、その働きを人々と分かち合うようになり、それによってモーセも民も倒れてしまわずに済んだのです。
ただし、そこには一つの大切な原則があります。19節、20節でエトロは、モーセ自身がしなければならない事について「民に代わって神の前に立つこと」と「民に掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教える」という二つのことを挙げています。そして、それら事に専念するために、日常的な問題については賜物のある他の者たちに委ねるように勧めているのです。ですから、ここでエトロは、単にモーセの体を心配しているのでも、あるいは組織を上手に運営していくためのアドバイスをしているのでもありません。神の前に立って、神の掟と御心を聞き、それを民に示して、彼らが行くべき道を示すという、指導者モーセに与えられている本来の働きに専念できるようにするための方法を述べているのです。そしてこれとよく似た話は、新約聖書の使徒言行録6章にも描かれています。
これらの出来事には、私たちが教会を正しく築き上げ、成長させていくための大切な原則が語られています。すなわち、教会にとって最も必要なことは、「神の御言葉に聞く」ことであるということです。教会政治や様々な制度は、その目的のために地上の教会に与えられているものです。教会は、それぞれがそれぞれの賜物を用いながら、共に主に仕え、共に成長する共同体です。そしてその中心にあるのは、私たちが「神の御言葉に聞き」その御言葉に従って、自らを捧げていくという事なのです。
Ⅳ:与えられている召しを求めて
今日の新約朗読では、エフェソの信徒への手紙を読みましたが、現代の私たちの教会で言えば、ある者は牧師に、ある者は長老に、執事に、あるいはその他の一つ一つの働きに、『キリストの賜物の秤に従って、恵みを与えられて』その働きに召されているのです。そしてそれらの教会の役職や奉仕の努めは、決して人間的な理由で、便宜上設けられているのではありません。それらの制度や組織は、教会において神の御言葉が正しく語られ、また聞かれるために大切にされなければならないのです。
私たちがこれからもキリストを頭とする一つの群れとして共に歩んでいく群れへと成長していくために、改めて、「神の言葉を聞く」ということを、今まで以上に大切にしていきたいと思います。そしてキリストが、ここにいる私たち一人一人にも、ご自分のための働きを与えておられ、その働きに召し出しておられることを覚え、その神の召しが何であるかを、今朝私たち一人一人が、神に真剣に問い掛けて祈りたいと願います。