Ⅰ:時代という言葉が指すもの
12章39節以下を読み返すと、そこで主イエスが繰り返し「時代」という言葉を使われているのに気がつきます(39節「よこしまで神に背いた時代」、41節、42節「今の時代の者たち」、45節「この悪い時代の者たち」)。主イエスは、ご自分の言葉も御業も受け入れようとしない時代の人々を「よこしまで神に背いた悪い時代の者たち」と呼んでいます。「時代」という言葉はよく、自分たちを取り巻く環境や社会と同じ意味で使われていて、「自分が上手くいかないのは、時代が悪いからだ」などと言ったりします。しかし「時代」は、そこに生きている人間と無関係に存在している訳ではありません。この12章で「時代」と訳されている言葉も、元々は「生まれる」という意味の言葉から派生して出来たもので「世代」と訳すことも出来ます。
ですから、主イエスはここで、何かぼんやりとした人間を取り巻く環境や雰囲気としての「時代」を問題にしておられるのではなく、そこに生きている、一人一人の人間の在り方を問うておられるのです。
Ⅱ:綺麗に整えられた心
では、主イエスの目から見た「悪い時代の人々の姿」とは、どのようなものだったか。今日の箇所で主イエスが語っておられるのは、一つのたとえ話です。追い出された悪霊が、砂漠へさ迷い出ていきますが、しかしそこには休む場所を見つけることが出来ませんでした。そこで悪霊は、『出て来たわが家に戻ろう』と言って、元いた場所(つまり住みついていた人間)に戻ることにします。そこで、悪霊が戻ってみると、この悪霊が追い出された人の内側は、綺麗に掃除がされていて、整理整頓された状態になっているのを見つけます。
このたとえ話は、直接的にはファリサイ派たちに向けて語られている言葉ですから、それは旧約聖書の掟を忠実に守ることで、自分たちの生活を清く正しい生き方にしようとする彼らの態度を指しているのでしょう。その事を私たちに当てはめて考えれば、「聖書の教えを一つ一つを守ることで、自分を神に喜ばれる良いものにしようとする事だと言えるのではないでしょうか。ところが悪霊は、今度はそこに自分よりももっと悪い七つの悪霊を連れてきて住みつくようになったのです。そこでその人の在り様は、最初の時よりも、更に酷い状態になってしまいました。主イエスは『この悪い時代の者たちもそのようになろう』と警告されるのです。
Ⅲ:真の悔い改めとは
もちろん、私たちが聖書の御言葉に真剣に聞いて、そこに書かれている教えに従って生こうと決意して、努力することは何も悪いことではありませんが、残念ながらそういう決意はあまり長続きしません。しかし、今日の御言葉から言えば、私たちがもし「自分は長い間信仰生活を続けてきて、こんなにもキリスト者らしい人間になることが出来た」と思うなら、そこに悪霊のつけ入る隙が生まれるのです。
「いや、自分は本当にキリスト者らしい、立派な生活は出来ていません」と言われる方もおられるかも知れません。それは正直な気持ちだと思います。しかし、他人からその事を指摘されたとしたら、それを素直に受け入れることが出来ずに腹を立てるのではないでしょうか。それはつまり、「自分なんて・・・」と言っている私たちの心にも、自分を綺麗に飾り立てて、自分は大分キリスト者らしくなったと考えて、自分を誇ろうとする思いがどこかに潜んでいるということです。
問題は私たちの心が「綺麗」か「汚いか」ではなくて、そこが「空き家」になっているということなのです。私たちが自分という家をどんなにきれいに掃除して、内側も、あるいは外側の態度も、キリスト者らしく見えるように整えようとしてみても、しかしその家が、誰も住んでいない「空き家」であれば、それは悪霊にとって居心地の良い格好の住かとなるのです。なぜなら、その人は本当の悔い改めをしていないからです。悔い改めとは「もうしません」と固く決意をすることではありません。本当の悔い改めとは、私自身をすべて主イエスに明け渡して、このお方を主として私の中にお迎えして、住んでいただくことなのです。それ以外の、中途半端な自己反省や自己研鑽によって整えられた心は、綺麗に整理され、飾られているけれども、家を守るべき主のいない空き家となってしまっているのです。
Ⅳ:空き家ではない私たち
しかし、主イエスを主と信じて聖霊を注がれた私たちは「神の神殿」とされており、聖霊を通してキリストが私たちの内におられ、あらゆる誘惑や悪霊の攻撃から守ってくださるのです。ですから、私たちはもう、再び悪霊に心を奪い返されるのを心配する必要はありません。私たちにとっての問題は、主が私の内に住んでおられないということではなく、私たちが自分の罪や弱さに、またこの世の様々な試練に目を奪われて、その事を見失い、信じられなくなってしまうという事なのです。
人は、そんなに簡単に変わる事は出来ないかも知れません。何度も罪を繰り返して、何度も悔い改めて、もまた同じ罪を繰り返す、それが私たちの姿です。でもその私たちの内には、その罪を十字架で贖ってくださった主イエスが確かにおられるのです。ですから、私たちは何度でも悔い改めればよいのですし、これからも御言葉に聞き続け、その御言葉に従って生きることが出来るように、主イエスの助けを祈り求めればよいのです。
イエス・キリストこそ私たちの主です。日曜日だけではなく、教会に来ている間だけでもなく、私たちがいつどこにいる時も、主イエスは私たちの主でいてくださるのです。私たちがどんなに愚かで、弱く、罪深い者であっても、主イエスは今日も私たちの主として、私たちの内に共におられ、私たちは今日、確かにこの主のものなのです。大切なのは、その単純な真理を見失わないということです。私たちはこれからも聖書の御言葉に聞き続けて、そのことをいつも忘れずにいたいと思います。