2024年11月10日 朝の礼拝「しるしではなく、言葉を信じる」

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2024年11月10日 朝の礼拝「しるしではなく、言葉を信じる」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章38節~42節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
12:41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
12:42 また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 12章38節~42節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:しるしを要求する人々
 前回の主イエスの言葉に対して、今度はファリサイ派と律法学者が『「先生、しるしを見せてください」』と要求しました。「しるし」とは、一目見て「この人は約束の救い主だ」と分かるような目に見える証拠の事です。しかしこの時点で主イエスはすでに、病人の病を癒し、悪霊に憑りつかれた人から悪霊を追い出すという奇跡を行っていました。しかし、彼らはその御業を認めようとせずに、「悪霊の業だ」と非難したのです。恐らく彼らは、たとえ主イエスがどんなしるしを見せても、それをしるし認める気はなかったのでしょう。そのような彼らの態度は、やがてあの十字架での「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」という言葉へと繋がっていくことになるのです。

Ⅱ:十字架のしるしを受け入れる
 そこで主イエスは、『「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』とお答えになりました。「しるしを欲しがる」とは、神を自分の思い描く通りの姿にコントロールしようとすることです。しかし主イエスは、そういうあなたがたが望んでいる都合の良いしるしは「決して」与えられない、とはっきり告げておられます。ただし、ここで例外として「ヨナのしるし」が挙げられています。そして『ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように』、「人の子」主イエスも「三日三晩、大地の中にいることになる」のです。この言葉は、やがて来る主イエスの十字架の死と復活の出来事を指しています。キリストの十字架以上の奇跡はありえないし、私たちが主イエスを信じるとは、この十字架のしるしを信じるという事なのです。もちろん私たちは、この目でリアルタイムで十字架と復活という出来事を目撃する訳ではありません。今の時代を生きる私たちは、聖書の御言葉と、それを解き明かす説教を通してキリストの十字架と復活を目撃し、それが私のための神の救いの御業なのだという事を示されるのです。キリストの十字架と復活こそ、神の愛と救いの御業がはっきりと現れているしるしであり、私たちは目に見えるしるしではなく、その十字架を指し示す神の言葉を信じて、受け入れることでしか、神を知ることは出来ないのです。

Ⅲ:ニネべの人々と南の国の女王
 そのことを主イエスは続く41節以降で、旧約聖書のニネべの民と、南の国の女王という二つの事例を通して語っておられます。この南の国の女王も、ニネべの人々も、彼らはどちらも異邦人(外国人)です。しかし主イエスは、ユダヤ人からは決して救われない人々と思われていた彼らが、終わりの日に裁きの座に立って、神の民であるユダヤ人を罪に定めることになると言われるのです。その理由はただ一つ、彼らはソロモンの知恵を聞き、あるいはヨナの説教を聞いて、それを信じて、悔い改めたからです。そしてそのヨナやソロモンよりも優る主イエスの言葉を信じようとしないこの時代の人々を、終わりの日に異邦人である彼らが裁くことになるのです。
 私たちはよく、他の宗教と違って自分たちはご利益信仰ではないと口にします。しかし実際には苦しみや試練に出会う中で、私たちも十字架や復活というものが見えなくなり、それよりも目に見える、現実的なしるしを求めることがあるのではないでしょうか。もちろん苦しい時に、目に見えるしるしを求めようとする気持ちは痛いほどよく分かります。願った通りに叶えられない時に、神に対して疑問や怒りを抱かずにいられない気持ちも、本当によく分かります。しかし、目に見える証拠があれば、試練の中で安心を得て、神に信頼できるという私たちの希望は、必ず失望に終わることになるのです。

Ⅳ:神の言葉に信頼する
 神の言葉に信じてキリストの十字架を受け入れる以外に、本当の希望を見出すことは出来ません。もちろん、苦しみの中にあって御言葉に聞き続けるということは決して楽な道ではありません。しかし、苦しくても神を自分の思いに従わせるのではなく、私たちが神の御声を注意深く聞き、その神の心に従って生きる中で、苦しみや試練の中に神の愛を見出し、主イエスが共にいてくださることを見出すことが出来るのです。苦難の中でなお忍耐強く聖書の御言葉に聞き続け、目に見えるものではなく、目には見えない神の言葉に信頼し続けるなら、私たちもまた世の終わりの日には、神の真の栄光を仰ぎ見ることが出来るのです。その日が来るまで、私たちはこれからも、忍耐強く、主の御言葉に聞き続けようではありませんか。 

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