Ⅰ:言葉の責任の重さ
マタイ福音書7章16節には、今日の「木」と「実」という比喩が出てきます。7章と12章はどちらも、「木」とは、その人の内面を、「実」は目に見える行動や言葉の事を指しています。 ただし、7章の言葉が弟子たちに向けた「教え」の一つとして語られているのに対して、今日の12章の言葉は、その前段でファリサイ派の人々が口にした言葉に対する返答として語られているという状況が大きく異なる点です。ですから、今日の箇所の「実」という言葉は、特に人の口から出る「言葉」というものに焦点が置かれています。
現代は特に、言葉の意味がこれまでになく軽くなっている時代です。公の場で不適切な発言をした政治家が、「これこれの発言を撤回します」という言い回しを使うのを耳にします。しかし、一旦口から出した言葉を撤回してなかったことにする事は出来ません。なぜなら言葉は、その人の心の内にある思いや考えから出てくるからです。
そして私たちが普段何気なく口にしている「言葉」には力があって、使い方を誤れば、それは言葉は人を傷つける鋭い凶器となり得るのです。ですから神は、その言葉の一つ一つについて最後まで責任を問われるのです。
Ⅱ:つまらない無益な言葉の罪
主イエスは『言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。』と警告しておられます。この福音書の20章でぶどう園の主人のたとえ話が出てきますが、そこで主人が人を雇いに出かけていくと「何もしないで広場に立っている人々がいた」という文章が出てきます。この「何もしない」という言葉が「つまらない」と訳されている言葉と同じです。「つまらない言葉」とは、人を悔い改めや神に対する信仰へと導くこともなく、あるいは人を慰めたり、力づけたりすることもない、役に立たない言葉、神の栄光を表さない言葉のことです。 仮に正しい事(正論)を語っていたとしても、それを愛が伝わらるような仕方で、愛と配慮を持って語られなければ、その言葉は相手を生かす言葉とはなりません。そして愛を持って人を建て上げることも、神の栄光を表すこともない無益な言葉を、私たちもまたいろいろな場面で口にしてきたのではないでしょうか。その一つ一つの言葉についても、神は終わりの日に、その責任を私たちに問われるのだと言われているのです。
Ⅲ:木が変わらなければ、実は変わらない
もし私たちが、自分の罪というものがわからなくなったなら、その時には自分がこれまでに口にしてきた言葉を振り返ってみればよいのです。自分がいかに愛のない愚かな言葉を、さも正論であるかのように口にして、多くの人を傷つけてきたのか、と。
そして、目の前に悲しみや試練に悩み、苦しんでいる人がいる時に、その人を慰めたい、励ましてあげたいと思いながらも、しかし自分の中には、相手の慰めになるような言葉が見つからず、ただ黙って、悲しむ相手を見ている事しか出来ない自分の姿を。そういう自分の無力さを見つめる時に、私は自分の倉に愛や優しさを持ち合わせていないのだという事を、改めて思い知らされるのです。
では、そのような現実を前にして、私たちは一体どうすれば良いのでしょうか。余計なことを言わないように静かに黙っているのが良いのでしょうか。あるいは、人を傷つけない丁寧な言葉遣いをするように心がければよいのでしょうか。しかし、問題の本質は、私たちの口から出る言葉にあるのではありません。私たちの心が良いものに変わらなければ、言葉だけを整えても意味がありませんし、そもそも心が悪いもので一杯なのに、言葉だけが良いものになるという事はあり得ないのです。
Ⅳ:神の言葉を信頼して、信仰を告白し続けよう
そして、私たちの心が良いものに変えられるということは、私たち自身の決意や意志によって成し遂げられるものではありませんし、綺麗な言葉を使うとか、立ち居振る舞いを美しくするとか、そういう小手先の変化ではだめなのです。『人を義とする言葉」とは、私たち自身の愛や優しさから出てくる言葉ではなく、主イエス・キリストの十字架と復活を信じて、このお方を主と告白する「信仰告白」の言葉のことです。そしてキリストを主と信じる信仰は、私たち自身の意志や思いから生まれるのではなく、私たちの内に生きて働く「聖霊の力」によって生まれてくるのです。この聖霊の働きを否定するなら、誰も自分の力で主イエスを救い主と告白することは出来ないのです。しかし、主イエスを「主」と呼びながら、一方で今も、人を傷つけ打ち倒す刃の言葉が口をついて出てくるのが私たちの現実です。
しかしそれでも私たちは、このキリストにあって罪人を救うと約束された神の言葉に信頼して、この御方を主と告白するのです。このお方の十字架によって、確かに古い罪の私は滅ぼされているのだ、そしてキリストにあって新しい永遠の命を与えられているのだと告白するのです。
その時神は、生まれつきの罪の性質から出る愚かな言葉ではなく、聖霊を通して神が与えてくださった信仰の言葉を、私の心の中にある、私の蔵からら出てくる真実の言葉として受けとめてくださるのです。