2024年10月27日 朝の礼拝「キリストの旗を掲げて」

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2024年10月27日 朝の礼拝「キリストの旗を掲げて」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 17章8節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:8 アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、
17:9 モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」
17:10 ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。
17:11 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。
17:12 モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。
17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。
17:14 主はモーセに言われた。「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。『わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。」
17:15 モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて、
17:16 言った。「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 17章8節~16節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:私たちにとってのアマレク人とは
 これまでイスラエルの民を襲った荒野での試練は、生きるために必要な水や食料を得ることが出来ないという試練でした。そして、イスラエルの人々が荒野で遭遇したもう一つの試練が、今日の箇所に描かれている異民族との戦いです。今日の17章8節以降では、その外敵との戦いを初めて経験したイスラエルの人々の姿が描かれています。
 水不足や食料不足の危機が、人生において、神よりも物質的な必要を求めようとする誘惑との戦いであるとするならば、今日のこの異民族との戦いは、私たち自身の内側に働いて、私たちを神から離れさせようとする力との戦いであると言う事が出来ます。それは「主は今日も共におられる」(今年の教会標語)を、私たちがどのような場面においても信じることが出来るか、という信仰の戦いなのです。
 
Ⅱ:祈りによる見えない戦い
 モーセはこの時、ヨシュアという人物を選んで、戦いの指揮を執るように命じます。そして自らは『明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」』と告げます。
 そしてモーセが手を上げている間は、イスラエルの方が優勢に、疲れて手が下がると、今度はアマレク人の方が優勢になるという不思議な現象が起こります。この一連の出来事は一体何を表しているのでしょうか。その事について、教会は伝統的に、この天に向かって手を挙げるモーセの姿を、神に対する「祈り」として理解してきました。そのように理解して読むなら、今日の箇所でイスラエルの人々は、目に見える戦いと、目に見えない祈りの戦いをしていた事になります。
 そして、この時イスラエルがアマレク人に勝利することが出来たのは、目に見える戦いにおいてイスラエルがアマレク人よりも強かったからではなく、目に見えない信仰の戦いにおいて神がその祈りに答えてくださった事によります。それは、モーセの熱心な祈りによって神の力が引き出されたということではありません。祈りこそ、アマレク人にはない、神の民であるイスラエルだけが持っている強力な武器であり、それが戦いの勝敗を分けたのです。
 それはつまり、人生に起こる様々な試練や苦しみにおいて、私たちは祈ることなしに信仰の戦いを戦い抜くことは出来ないという事です。この厳しく混沌とした時代の中を生きていくということは、食べ物も水もなく、そして恐ろしい敵が待ち構えている荒野を旅するのに似ているかも知れません。そこでは、主の日に礼拝を守るとか日常的に祈るという事は気休め程度にしかならず、現実の問題の解決にはあまり役に立たないように思えます。しかし実は、主の日の礼拝を守るという事、あるいは祈りの生活が、私たちが日々直面する現実の戦いを戦い抜くことが出来るかどうか、勝敗の鍵を握っているのです。祈りと礼拝において、私たちは人間の力を超えた神の守りと導きを経験することが出来るからです。

Ⅲ:祈りの力
 一方で私たちの人生には、いくら祈っても、自分が願っている解決が与えられず、道が開けない場面がなんと多いことかと思うのです。「苦しい時の神頼み」という言葉は、人間の身勝手な信仰を表す言葉として否定的に用いられる事が多い言葉です。しかし、苦しい時に神に頼み続けるということは、何と難しいことでしょうか。それ自体が私たちにとっての信仰の戦いなのです。そして、その困難な戦いを乗り越えるために必要なのは、同じ信仰の戦いを戦っている、信仰の友の執り成しの祈りなのです。
 今日の箇所でモーセの手を支えたアロンとフルの行動は、それもまたモーセを支えるための「執り成しの祈り」であったという風に理解することが出来ます。苦しんでいる人のために、真の神に執り成しを祈るという働きは、信仰者である私たちにしか出来ない働きです。そしてその祈りは、単なる気休めではなく、ご自分の民を憐れみ、またその人を本当の意味で力づけ、立ち上がらせることが出来る神の御力が充分に発揮されるためように取りなす、力ある働きなのです。
 
Ⅳ:主イエスの祈りに支えられて
 主イエスは、最後の晩餐において十二弟子のペトロに、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と告げて励まされました。荒野の旅路を行くようなこの世の歩みの中で、私たちの信仰が無くならないように、この世の試練において、「神が必ずともに折られる」という信仰が揺らぐ時、私たちが忍耐強く信仰の戦いを戦い抜くことが出来るように、主イエスは今も篤い祈りを持って私たちを支えていて下さるのです。
 この主イエスの祈りに支えられ、その同じ主を信じる仲間たちの祈りに支えられている私たちキリスト者は、たとえこの世のどんな試練の中にあっても、約束されている天のみ国へ入るその日まで、信仰の戦いを戦い抜く事が出来るのです。

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