2024年10月06日 朝の礼拝「愛の日曜日」

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2024年10月06日 朝の礼拝「愛の日曜日」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章9節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:9 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。
12:10 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
12:11 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。
12:12 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
12:13 そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
12:14 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、
12:16 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
12:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
12:19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
12:20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 12章9節~21節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:ある安息日に
 ある安息日に、主イエスがユダヤ人会堂に入られると、そこに一人の片手が麻痺した男性が座っていました。そこでファリサイ派の人々は、この男性を指さして『安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」』と主イエスに尋ねたのです。
 この問いに対して、安息日には一切の医療行為をしてはならないと主張する厳格なグループももちろんありましたが、多くの律法学者たちは、「命に関わるような緊急性のある病や怪我であれば、安息日に治療をすることも許される」と理解しました。しかし、今日の箇所に出て来る男性の場合は、そういう命にかかわるような緊急性のある病ではありません。ですから、「そういう急を要さない病であれば、安息日が終わってから、次の日に治療をするべきである。」とファリサイ派は考えたのです。
 そしてここでは主イエスに対して、あなたはこのような場合にどう考えるかと問い質して、主イエスを律法違反で訴える口実を得ようとしたのです。

Ⅱ:安息日に羊を助けるか?
 しかし、主イエスはここで律法の解釈の議論ではなくて、他者に対する「憐れみ」という別の視点から彼らの質問に答えられます。ここで主イエスは「羊」を例に挙げて、『「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。』と逆に彼らに質問されます。
 この主イエスの質問に対するユダヤ人の答えもまた、様々な見解に分かれていました。エッセネ派と呼ばれるグループは、これを律法違反であると主張しましたし、多くのユダヤ人は、安息日でも、穴に落ちた羊を助ける事は赦されると考えましたが、その場合、羊が自分で這い上がって来られるように穴の中に物を投げ入れるとか、餌を投げ与えて翌日助ける、というように、色々な条件がつけられていました。
 そもそも安息日は、神が私たち人間の弱さに配慮して、心と体を休めることが出来るように設けてくださった日です。そして、神の御業を覚えて礼拝するということが、安息日の本来の目的でした。しかしファリサイ派は、安息日の本来の目的を見失い、書かれている言葉を文字通りに守ることに心を奪われていったのです。その事は、この安息日に彼らがとった行動にもはっきりと現れています。
 彼らは、目の前にいる手が麻痺した男性を見ても、憐れに思うことも、同情することもありませんでした。むしろこの男性を、主イエスを罠にかけて陥れるための道具として利用しようとしたのです。そこには、安息日の本来の精神である「愛」や「憐れみ」の心は、どこにもありません。
 それに対して主イエスは、この男性の苦しみに目を留めて「安息日に良いことをするのは許されている」とお答えになり、安息日にこの男性を癒されたのです。

Ⅲ:安息日の主
 この会堂での出来事に続けて、主イエスがご自分の元に来られたすべての病人たちを癒されたことが報告されています。そしてこれら一連の出来事が、イザヤ書42章の預言の預言の成就であったと語られています。ここでは「正義」という言葉が繰り返し出てきますが、しかしこの正義は、当時の多くのユダヤ人たちが考えていたような、外国人の支配を力で打ち破るような、力による正義ではありませんし、ファリサイ派のように、人の弱さや過ちを暴き出して、それを厳しく裁く正義でもありません。この僕は、人の目を引くような勇ましさも派手さはなく、そして「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」とあるように、彼がもたらす正義は、人を裁き、打ち倒す正義ではなく、人を憐れみ、生かす正義なのです。
 そしてマタイ福音書は、今日の箇所で会堂にいた多くの人々の中でただ一人、片手の萎えた男性の苦しみに目を向けて、憐みの心を持ち、安息日にこの男性を癒された主イエスこそが、このイザヤ書で預言されていた救い主であり、安息日の戒めが本来持っていた真の憐れみを実現してくださる、安息日の主である、と結論づけているのです。 

Ⅳ:安息日はキリストとの交わりの日
 このお方は、傷ついた葦や、消えかかっている灯心に等しいような、私たちの小さな悩みや痛みを「あなたの悩みは、命に関わるものではないから、その話を聞くのは明日にしよう」とか、「あなたが抱えている悲しみや痛みは、他の人と比べて大きくないから、自分で何とかしなさい」と言って蔑まれません。たとえそれが、他人の目から見たら、取るに足らない小さな痛みであったとしても、それを受け止めて、深く憐れんでくださるのです。そしてこれこそが、安息日に込められた本来の心、神の憐れみの心であり、主イエスこそが、この安息日の本来の精神を体現してくださる、安息日の主なのです。
 主イエスはここで、あなたがたも私のように、安息日に手の萎えた人を癒すような、そういう愛の業にもっと励みなさい、と言っておられるのではなく、この安息日の主であるご自分の言葉と御業を信じて、主として受け入れなさい、と命じておられるのです。
 日曜日は、御言葉と交わりを通して、私たちがこのキリストに出会い、キリストの愛に触れて、新しい一日へと踏み出す力を与えられる日です。そして、このキリストの愛に生かされてある今を感謝して、私たちも自身も愛に生きる者へと変えられていく日、それが私たちにとっての安息日なのです。これからも私たち一人一人が、安息日の主であるイエス・キリストと出会うために、この日曜日の礼拝へ喜びと感謝を持って集まることが出来るように、聖霊の助けと導きを祈り求めて参りましょう。

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