Ⅰ:あなたのホームはどこですか?
「衣食住足りて礼節を知る」という諺があるように、私たちが、雨露をしのいで、生活する「家」を持っているという事は、最低限の人間的な生活を営むために必要不可欠なものです。この「家」を表す言葉として、英語ではホームとハウスという二種類の言葉があります。ハウスという言葉が、建物としての家を指すのに対して、ホームという言葉はより情緒的なニュアンスを含んでいます。私たちが本当に安心できる場所、自分が自分でいられる場所としての「ホーム」はどこにあるのか、そのことについて、ご一緒に聖書の中から見つめてみたいと思います。
Ⅱ:放蕩息子の転落
今日お読みした聖書の物語は、そのホームに纏わるたとえ話です。今日のお話に出てくるのは、一人の父親と、その息子です。彼はある日、父親に対して、父親が死んだら自分が相続することになっている財産の取り分を、今すぐ分けて欲しいと要求します。もちろん、父親はその要求を拒むことも出来たはずです。しかし、父親はこの時、息子に財産を渡すことに同意しました。
そこで、父親の財産を受け取ったこの息子は、早速父親の家を離れて、遠い外国へと旅立ちます。父親の目の届かない場所で自由になった弟息子は、飲んで、食べて、面白おかしく暮らし、湯水のようにお金を使い果たして、無一文になってしまいます。しかも運悪く、この国を激しい飢饉が襲ったために、この弟息子はついには、その日食べる物にも事欠くようになってしまいます。こうして無一文で住む場所も、仲間も失った弟息子は、それでも何とか人づてに仕事を得ますが、その仕事は豚の世話をする仕事でした。ユダヤ人にとってこの豚は、汚れた動物とされており、豚飼いは卑しい仕事とされていたのです。この弟息子、が豚飼いの仕事に就き、更にはその豚の餌でいいから腹を満たしたいと願ったというのは、彼がこれ以上ないどん底の状態にまで落ちてしまったということを表しています。そして、事ここに至って遂に、この弟息子は、自らが犯した過ちに気が付いて「我に返」ります。彼は、自分が棄てて、飛び出してきた父の家には、有り余るほどのパンがあるのに、息子であった自分は、豚の世話を死ながら、飢え死にしそうになっているという事実に、今更ながら気が付いたのです。
Ⅲ:生き返った息子
しかし、父親を裏切り、財産もすべて使い果たしてしまった自分は、もはや息子として戻る資格はないという事を、彼は知っていました。しかし、雇人の一人としてなら、もしかしたら父親は戻ることを許してくれるかも知れない、そう思った彼は、再び父親のもとに戻る決心をします。この弟息子が、本当に安心して生きることが出来るホームは、自分をいつも守り、支えてくれていた、あの父親のいる場所しかありませんでした。その事に彼はようやく目が開かれたのです。
そして20節後半からは、その帰って来た息子を見つけた父親の様子姿が描かれています。この父親は、息子が家に戻ってくると、まだ家から遠く離れていたにも関わらず、息子に『走り寄って首を抱き、接吻した』と聖書には書かれています。
豚飼いの仕事をしている間、この弟息子は、毎日お風呂に入って体を綺麗にするという事は出来なかったでしょうから、恐らく彼の服や全身は、垢と泥と豚の糞尿まみれで汚れ、酷い悪臭を放っていたと思うのです。しかし父親は、そんなことは気にも留めません。この息子をしっかりと抱きしめて、その汚い頬に口づけをして、息子を喜んで迎え入れたのです。
この弟息子は、自分にはもはや息子として家に戻る資格はないと考えていましたし、事実その通りでした。だから息子ではなく、雇人として家に戻らせて欲しいと願おうとしたのです。しかし父親は、目の前の彼に息子となる資格があるかどうかなどという事は、一切問いません。ただ、死んでいたと思っていた息子が生きて目の前にいる、ただそれだけで、それ以外には何の条件もつけずに、彼をもう一度家族として受け入れたのです。
Ⅳ:帰るべき場所へ向けて
なぜ父親は、この自らに後ろ足で砂を掛けるようにして出て行った息子を、何も言わずにもう一度迎え入れたのでしょうか。その理由はただ一つ、この父親は、いなくなった息子のことを心から愛していたからです。愛とは、相手が自分の愛を受けるのに相応しい人物だから、愛される資格を持っているから愛するのではありません。愛とは、死んでいた者が生きて自分の元に戻ってきてくれた、ただそれだけで心から喜び、その命そのものを肯定し祝福して、無条件で相手を受け入れる愛です。そして、それが聖書が教える本物の愛です。この父親はその本物の愛で、弟息子の命そのものを愛したのです。
今日のたとえ話で、父親と言われているのは、神のこと、息子たちは、私たち人間のことです。神はただ、私が私として生きている、生きて再びご自分の元に帰って来た、その事を心から喜び、私という人間を、何の条件も資格も問わずに、丸ごと受けとめてくださるお方です。この愛なる神こそが、私たちが心から安らぐことが出来る、帰るべき本当のホームなのです。