2024年09月15日 朝の礼拝「喜びの日曜日」

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2024年09月15日 朝の礼拝「喜びの日曜日」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章1節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:1 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
12:2 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
12:3 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
12:4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
12:5 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
12:6 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
12:7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主なのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 12章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

旧約朗読 ホセア書4章6-7節(旧約1,409頁)
新約朗読  マタイによる福音書 12章1-8節(新約21頁)
説  教  『 喜びの日曜日 』
説教要約
Ⅰ:ある安息日に
 安息日は、十戒の第四戒で命じられている通り、一切の仕事を休まなければならない日ですが、1節から8節では、その「安息日」を巡ってに起こった事件が記されています。事の起こりは、主イエスと弟子たちが安息日に麦畑を通られた時に、空腹を覚えた弟子たちが、その畑の麦の穂を摘んで、食べ始めたということでした。するとその弟子たちの様子を見たファリサイ派の人々は、主イエスに対して弟子たちのした行為を咎め始めたのです。ファリサイ派の人々が非難したのは、弟子たちが麦の穂を摘んで食べたという行為そのものではありません。問題は、弟子たちがそれを「安息日」に行ったという点にありました。

Ⅱ:安息日の本当の意味
 彼らの主張は一見、聖書の教えを大切にして、それを忠実に守ろうとする、真面目な信仰者の態度に見えます。しかしそこで彼らは、安息日の戒めの本質は何かという事よりも、安息日に禁じられている仕事とは何かという線引きをする事に熱心になり、その自分たちが考え出したルールを守れば、律法を守ったことになると考えたのです。更に、彼らは、自分たちが考え出した規則を、他者にも守らようとして、人々が律法に違反しないかを監視する事に熱心になり、それが重荷となって、人々を苦しめていたのです。
 では、律法の本来の精神、そこに込められていた神の御心とは、何でしょうか。7節の言葉は、旧約聖書のホセア書第6章6節の引用です。ここで主イエスは、律法の規定は、神が私たちを規則でがんじがらめに縛り付けるために与えたのではなく、私たちを憐れむために与えられたものであると述べています。
 安息日に仕事をしてはならないという十戒の命令は、ただ人間が働くことを禁じるということそれ自体が目的ではありません。安息日は第一に、私たちが神に心を向けて、神との交わりを喜び、楽しむために与えられている日です。また安息日は、神が弱い人間に配慮して、その心と体を守るために神が与えてくださった日でもあります。だからこそ、人は安息日を大切にしなければならないのです。
 聖書の時代のユダヤ人だけではなくて、現代に生きる私たちキリスト者にとっても、この安息日の戒め、すなわち主の日の礼拝を守るという命令は、とても大切なことです。しかし、それがもし、「規則だから」、「義務だから」、という理由で守っているなら、日曜日に礼拝に来るということは時に重荷となることもありますし、何らかの事情で日曜日の礼拝に来ることが出来ない人に対しても、信仰者の義務を果たさない不真面目な者だと、非難する思いが湧いてくるでしょう。しかしもし私たちが安息日を、神が私たち人間の喜びと楽しみのために与えられた祝福の日として喜んで礼拝に集まるなら、様々な事情で礼拝に来ることが出来ない方々を非難するのではなく、その人が神の恵みに与ることが出来ない事に心を痛めて、その人のために祈るでしょう。
そしてそれが私たちキリスト者が本来なすべきことです。

Ⅲ:キリストは安息日の主
 この時、ファリサイ派の人々は、律法の安息日の戒めに本来あったはずの「神の人間に対する憐れみ」という精神を見失い、安息日を安息からはほど遠い日へと変えてしまったのです。その彼らの主張に対して、主イエスは旧約聖書のダビデ王のエピソードを引き合いに出して、「あなたがたはこの事を読んだことがないのか」と反論しておられます。更に次の5節以下で今度は、神殿に仕える祭司を例に出して、ファリサイ派の批判に対して反証しています。最初に申し上げましたように、律法において安息日には一切の仕事をしてはならないと定められていますが、しかし神殿に仕える祭司だけは、この既定の中に含まれませんでした。そこで主イエスは、神殿に仕える祭司が安息日に働くことを許されているのであれば、神殿よりもっと偉大なものに仕えている弟子たちが、安息日に働いても当然許される、と反論している訳です。
 そう考えますと、主イエスが最初にダビデを引き合いに出されたのも、「ダビデが許されたのであれば、ダビデよりももっと偉大なものに仕えている弟子たちが、麦の穂を摘んで食べたとしても許される」と述べておられる訳です。そして、この「神殿よりもダビデよりも偉大なもの」という言葉の中心におられるのは、イエス・キリスト御自身なのです。
 その事を主イエス御自身が、8節で『人の子は安息日の主なのである。』という言葉で明らかにしておられます。つまり日曜日が安息日となるかどうかは、そこにキリストがおられるかどうかにかかっているのです。 

Ⅳ:キリストに出逢う喜びの日
 私たちは、日曜日に教会に来ることで安息を得るのではありません。そこで、キリストのもとに来ることによって、私たちは本当の安息に与ることが出来るのです。そして、このキリストが私たちといつも共におられ、私たちの生活の中心にいて下さるなら、実は私たちは、日曜日の礼拝だけではなく、月曜日であろうと、火曜日であろうと、それ以外のどんな日であっても、そこで私たちは、本物の安息と平和を得ることが出来る、喜びの日となるのです。

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