2024年09月08日 朝の礼拝「本当の休息」

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2024年09月08日 朝の礼拝「本当の休息」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章25節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 11章25節~30節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:ユダヤ人と現代人の重荷
 現代を生きる人々は、誰もが何かしらの重荷を背負って生きています。生きることに疲れ、人生に希望や喜びを見出すことが出来ずに、生きる力を失っています。それでは、二千年前のユダヤ人たちが背負っていた重荷とは、一体どのようなものだったのでしょうか。恐らく彼らもまた私たちと同じように、病気や生活の重荷を背負っていたと思います。いやむしろ、彼らが背負っていた生活の重荷は、現代に生きる私たちよりも遥かに重いものだったでしょう。ですから、ここで言う重荷とは、そういう生きていく上で彼らが背負わなければならない悩みや苦しみのことを含んでいたのではないかと思います。
 ただし、マタイ福音書で、「重荷」という言葉は、「律法の重荷」のことを第一に指していると理解することが出来ます(23章)。ユダヤ人たちは救いを得るために、ファリサイ派や律法学者が教える掟を、必死に守ろうと努力しましたが、どれだけ忠実に守ろうと努力しても、それによって自分が確かに救われているという平安や喜びを得ることが出来ず、むしろ、その律法に押しつぶされて、窒息しそうになっている、それが「疲れた者、重荷を負っている者」の姿でした。
 そしてそういう彼らの姿は、現代に生きる私たちの姿とも相通じるのではないでしょうか。「救い」という言葉を「幸福」「生きがい」に置き換えてみれば、現代に生きる多くの人も、幸福や生きがいを探し求めて、それを得るために必死に、真面目に生きています。しかし、いくら真面目に生きていても、思い描いている幸福や生きがいを手に入れることが出来ない、そこに、私たち現代人の負っている重荷があるのではないでしょうか。

Ⅱ:キリストの軛を負う
 そこで、今日の箇所で主イエスは、そういう重荷を背負って疲れている人に対して、「誰でも」、つまりどんな重荷を負っている人でも、「わたしのもとに来なさい」と呼び掛けておられます。ですから、主イエス招いておられるのは、律法の重荷を負っている人だけではありません。
 病気や悪霊、貧しさや差別、その他、どんな重荷を背負っている人であっても「わたし」のもとに来るなら休息を与えよう、と招いておられるのです。ただし、ここで主イエスが与える「休息」とは、ただ何もせずに過ごすという事ではありません。29節で主イエスは、本当の休息を得るためには、背負っている重荷を降ろすだけでなく、その代わりに新しい荷物を背負っていきなさいと言われるのです。主イエスは、その新しい荷物を「軛」と呼んでいます。軛とは、二頭の牛や馬の首に横木を当てて、二頭立てにして荷車を引かせるための道具です。主イエスが人々に負わせる新しい「軛」も、一人で背負うためのものではなく、主イエスと二人で背負っていくための軛なのです。
 そして、その新しい軛が負いやすく、軽い理由は、その共に軛を背負ってくださるお方が、「柔和」で「謙遜」なお方だからです。「柔和」という言葉は、何も持たない「貧しい」状態にあるという意味で使われています。もう一つの「謙遜」という言葉も同様です。
 キリストが背負われた重荷は、私たちが地上で背負っているどんな重荷よりも遥かに重く、耐えがたい軛でした。その十字架の軛を、キリストはたった一人で、最後までその肩に背負い続けて、私たちを罪の軛、死の重荷から解放してくださったのです。
 神の御子が、十字架の死に至るまでご自分を低くして、私たちと共に軛を負ってくださるからこそ、この軛は軽くて、背負いやすいのです。このキリストが私たちに負わせてくださる新しい軛とは「神の愛の軛」です。私たちを心から愛し、私たちがどれ程罪深く、欠けの多い者であるとしても、その貧しく小さな私たち一人一人を、キリストは手放すことも、見放すこともなさらないのです。この永遠に変わることのない愛によって、キリストと一つとされて、いつも共に生きるということ、それが、私たちがキリストの新しい軛を負うということなのです。
 
Ⅲ:本当の休息
 人には人生において、それぞれに背負わなければならない様々な重荷があります。そして多くの人は、その自分が背負っている重荷がなくなれば、安らぎを得られる、休息を得ることが出来ると考えています。しかし、本当の休息は「すべて疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう。」と呼び掛ける、キリストのみ声に耳を傾けて、幼子のようになってこのお方の許に行くことによってしか得られません。救いはここにしかないのです。
 そこで、私たちが抱えている重荷も含めた、私たちのすべてをキリストに背負っていただく時に、人は始めて本当の休息を見出すことが出来るのです。私たちが今、どんな重荷を背負っていようと、どんな痛みや傷を抱えていようと、私たちは決して一人ではありません。私たちはキリストの軛に捕らえられており、キリストが私たちの軛を共に背負っていてくださるのです。そこにこそ、私たちの本当の休息と安らぎがあるのです。

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