Ⅰ:知恵ある者ではなく幼子に
今日の御言葉は、聖書の中心的なメッセージである「神の赦し」と「憐れみ」が、真っすぐに語り掛けられています。
今日の箇所は、「その時」という言葉から始まっています。ルカ福音書10章の並行記事では、「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。」と書かれています。主イエスは、人々がご自分の御業や教えに触れても、悔い改めようとしない現実を前にして、しかしそこで喜びに溢れて祈り始めたのです。
「これらのこと」とは、ナザレのイエスこそが真の救い主であるという「神の救いの奥義」のことです。そしてこの救いの奥義は、世の知恵や常識によっては決して悟ることが出来ない、神の「神秘」に属する事柄です。ここで「知恵のある者や賢い者」と呼ばれているのは、ファリサイ派や律法学者たちです。彼らは「律法の専門家」であり、律法に関して一般の人々には及びも着かない膨大な知識と教養を身に着けていた「宗教エリート」でした。
人間的に考えれば、そのような彼らこそが、神の救いの奥義を知るのに最も相応しい人々であると考えるのが普通です。しかし主イエスはここで、神は救いの奥義を、この世的な知恵において優れた者にではなくて、「幼子のような者たちに」示されたと語っておられます。
ここで「幼子」と呼ばれているのは、イエスを主と信じて従った「弟子たち」のことです。ではなぜ主イエスは律法の専門家や宗教家ではなく、普通の人であり、欠けの多い彼らを弟子としてお選びになられたのでしょうか。一言で言えば、天の父なる神が、救いの奥義を「賢い者」や「知恵のある者」にではなくて、無学な者、人間的に優れた能力を持たない『幼子』に明らかにされることを喜ばれるお方だからです。
Ⅱ:幼子とは誰か
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一1章26~29節で、人が誰一人、神の前で自分自身を誇ることがないようにするために、この世の知恵のある者、能力の高い者ではなく、無に等しい者や身分の低い者をお選びになったと述べています。
そしてこのパウロの言葉から、主イエスがご自分の弟子を「幼子」と呼ばれた真意も、よりはっきりと浮かび上がって来ます。つまり「幼子」とは、自分一人の力では何も出来ず、誰かの愛や庇護がなければ生きていくことが出来ない弱くて無力な存在の事です。そのように親や大人の庇護を受けなければ生きていけない幼子は、だからといって親に対して「面倒をかけて申し訳ない」「何かでお返しをしなきゃならない」とは考えません。幼子は、親に遠慮したり、親の都合を忖度することはなく、素直に、熱心に、親からの愛情や庇護を求め、それを受け取ることが出来ます。それが幼子のような者の姿です。その「幼子」のような者となって、神の救いと愛情を熱心に求め、素直に受け取ることが出来る人が、神の救いの奥義に与ることが出来るのです。
Ⅲ:キリストの恵みによって
主イエスは続けて、『すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。』と述べています。
ここで主イエスは二つの事をお示しになっておられます。第一に、私たちは神の御子を通してしか、本物の神と出会い、この神を知ることは出来ないという事です。事実、主イエスから「女から生まれた者の中で最もすぐれた者」と評された、あの洗礼者ヨハネでさえ、自らの知恵や信仰によっては、その信仰の確信を持ち続けることが出来ませんでした。救いは私たちの内側から生じるのではなくて、上から来るものです。
そして第二の点は、そのように幼子のようになって救いを受け取ることが出来るようになるのも、私たち自身の素直さや信仰の力によるのではなく、神の恵みによるものであるということです。私たちが今、イエス・キリストを信じて信仰者とされているのは、人よりも素直な心を持っていたからではありません。わたしではなくキリストが、神の救いの奥義を示そうと心に定めてくださり、選んでくださったからこそ、こんなにも疑り深い、高慢な心を持っている私たちが、幼子のようになって天の父の愛と憐れみを求め、それを素直に受け取ることが出来るように変えられたのです。
Ⅳ:あなたも招かれている
「自分は罪深い、不完全な者だから、教会に来るのに相応しくない。」「聖書の教えを忠実に守ることが出来ない自分は、救われる資格がない」
そう考えて、教会に足を運ぶことや、洗礼を受けることを躊躇している人は少なくありません。しかし主イエスはそのように、自分は神の救いに相応しくないと感じている人こそ、ご自分のもとに来て安らぎなさいと招いておられるのです。
私たち、本当の命を回復して救いに至ることが出来る道、それは幼子のようになって、神が遣わしてくださった救い主であるイエス・キリストを受け入れることしかありません。そして、キリストを信じて信仰者とされた私たちも、この主の日の礼拝ごとにキリストに招かれて、神の御言葉を求め続け、聖霊の賜物とを祈り求めながら、ますます「幼子のような者」へと変えられていく恵みを頂いているのです。
今朝も、この礼拝を通して神が私たちに惜しみなく与えてくださる、愛と赦しを、私たちは何の遠慮もなく、幼子のようになって、素直に、感謝と喜びをもって、あふれるほどに受け取ろうではありませんか。