2024年08月18日 朝の礼拝「裁きと救い」

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2024年08月18日 朝の礼拝「裁きと救い」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章20節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
11:21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。
11:22 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
11:23 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
11:24 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 11章20節~24節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:なぜキリストは裁きを語られたのか
 今日の箇所でイエスは、ガリラヤ湖周辺にある町の名前を挙げて、彼らがご自分の行った様々な奇跡の御業を見ても、悔い改めようとしないことを責め始められました。では、これらの町に住む人々がすべて、イエスと敵対し、イエスを拒んだのかと言えば、必ずしもそういう訳ではありません。
 むしろ群衆は、イエスの起こす様々な奇跡を見て驚き、感心し、その教えの新しさや権威に感動して、喜んで聞こうとしました。しかし、イエスが彼らに期待し、求めておられたのは、教えや御業を通して、彼らが悔い改めに導かれるという事でした。しかし、ガリラヤの群衆たちには、イエスによって、自らの生き方や態度を改める「悔い改め」は、最後まで起こらなかったのです。そこでイエスは、その彼らの頑なな心や態度を責められたのです。
 今日の箇所から分かることは、いくら御言葉に感心して、それを喜んで聞いたとしても、それだけでは意味がないということです。その事によって「悔い改め」へと導かれて、その人自身が変えられるという事が起こらなければ、それは御言葉本来の目的を果たしたということにはならないのです。

Ⅱ:異教の町々と
 そこでイエスは、異教徒の町の名前を挙げて、来るべき裁きの日には、それらの異教徒の町よりも、ガリラヤの人々の方が厳しい裁きを受けることになると警告しておられます。
 最初のコラジンとベトサイダと対比して名前が挙げられているのが、フェニキアにあったティルスとシドンという町です。この二つの町は、商業都市として大変栄えた町であったと同時に、様々な不道徳や犯罪が横行した罪の町としても知られていました。今日の旧約朗読でお読みしたアモス書を始めとして、旧約聖書の様々な箇所で、このティルスとシドンに対する、厳しい裁きと非難の預言が語られています。
 そして、もう一つ名前の出てくるカファルナウムという町は、神の国の宣教を始められたイエスが、その活動の拠点として住まわれた場所として、この福音書にもすでに名前が出てきていました。言ってみれば、ガリラヤにおいてイエス・キリストが最も大切にされた町でした。そのカファルナウムと対比して名前が挙げられているソドムの町は、創世記において、その不道徳と不信仰によって天から硫黄の火によって滅ぼされた町として良く知られていた町です。この町の名は、ユダヤ人にとって、決して神に救われることのない罪人の巣食う町として、蔑まれ、軽蔑されていたのです。

Ⅲ:魂の医者を真剣に求めない罪
 ところが、イエスはここで、それらの異教徒の町の方が、神の民であるユダヤ人達が住むガリラヤの町々よりも、終りの日にはまだ軽い罰で済む、と言われたのです。その理由は、ガリラヤの人々が、まことの救い主であるイエスの教えを聞き、数々の奇跡の御業に触れながら、「悔い改めなかったから」でした。
 ではなぜ彼らは、イエスがなされた驚くべき御業や教えに触れながら、自らを悔い改めなかったのでしょうか。それは彼らが、異教徒は陰府に落とされるけれども、自分たちは神の民として「天にあげられる」と考えていたからです。イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなくて病人である」と述べておられますが、しかしイエスと同じ時代を生きた人々の多くは『医者が必要なのは、あの罪人たち、異邦人たちであって、健康な自分たちに医者は必要ない』と考えて、イエスの御業や教えに真剣に聞こうとはしなかったのです。
 今日の「裁きの警告」の御言葉は、ある意味で私たちにとっては、聞きたくない、好ましくない言葉であるかも知れません。しかし、罪の赦しを語る御言葉と同じように、今日のこの御言葉もまた、キリストが人々に語られた言葉として聖書に記されているという事実を、私たちは真剣に受けとめなければなりません。

Ⅳ:あなたがもし悔い改めるなら 
 しかし、そこでもう一つ心に留めておかなければならないことは、聖書は滅びと救いを、決して同じ比重で語っているのではないということです。聖書においてより大きな比重を持って語られているのは、あくまで後者の「救いのメッセージ」なのです。それは新約聖書はもちろん、旧約聖書においても同様です。旧約聖書の歴史は、人間が神の愛を裏切り続け、しかしなおもその人間を神が憐れ、救いの手を差し伸べられることの繰り返しです。この、神が私たちに向けておられる愛と憐れみを踏みにじる「愛への裏切り」こそが、私たちの持っている罪の本質なのです。しかし、それでもなお神は、ご自分の民を愛して救うために、ご自分の御子をこの世界にお遣わしになって、私たちの代わりに罰するという、人間の理解を超えた驚くべき方法をとられたのです。
 人間が犯す不道徳の罪は、いずれ神の裁きを受けなければなりません。しかし、今やイエス・キリストという真の救い主がこの世に来られて、その私たちが犯す罪を十字架において全て贖ってくださったのですから、私たちは終りの日に、個々の罪の「重さ」によって裁かれるのではないのです。私たちがやがて来る終わりの日に裁かれるかどうかは、このキリストの救いを受け取ったかどうか、すなわちこのお方の言葉と御業に触れて、自らを悔い改めたかどうか、この一点にかかっているのです。もしこのイエス・キリストに示された神の命がけの愛までも、最後まで拒み続けるなら、もはや救いの道は閉ざされて、人は神の裁きを避けることは出来なくなるのです。しかし反対に、もしこのイエス・キリストの御言葉と御業を本当に真剣に受けとめて、悔い改めて神の許へと立ち帰るなら、キリストには異教の町ティルスとシドンであっても、あの不道徳と悪徳を極めた罪の町ソドムでさえも、裁きから救いへと結末を変えられる力があるのです。

 今日、キリストを信じてキリスト者となった私たちもまた、この神の御子の言葉と御業よって、罪を悔い改め信仰者へと生まれ変わったのです。しかし、その悔い改めは、私たちの力や信仰によって起こったのではなく、神の御子であるキリストの御言葉を通して聖霊によって起こったのです。だからこそ私たちキリスト者はもう悔い改める必要がなくなったのではなく、むしろ私たちにこそ、御言葉に耳を傾けて、日々悔い改めに導かれ続けることが必要なのです。そしてその悔い改めと赦しの生活の先にこそ、滅びから救いへ、死から永遠の命へとたどり着くことが出来る、本当の幸いな結末が待っているのです。

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