Ⅰ:洗礼者ヨハネとは誰か
洗礼者ヨハネは、イエスに先だってユダヤの荒れ野に現れて、人々に「悔い改めよ。天の国は近付いた」と宣べ伝えた人物です。そのヨハネについてこの福音書の14章、あるいは21章から、ユダヤの民衆がヨハネを「預言者」と見做していたということが分かります。しかし、イエスはヨハネが「預言者以上の者」であり、更に11節では『およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった』と述べて、最大級の評価をヨハネに与えています。
では、旧約時代に現れた数多くの預言者と比べて、一体、洗礼者ヨハネの何が優れていたのでしょうか。
10節でイエスは、マラキ書3:1の御言葉の引用して、そこで予告されている「神が通る道備えをする使者」こそ、洗礼者ヨハネその人であると述べておられます。イエスが洗礼者ヨハネを「預言者以上の者である」と言われたのは、彼自身の清さや信仰深さが過去の預言者よりも優れていると言われたのではなく、彼に与えられている役割の重大さと恵みの大きさを指して「預言者以上のものである」と述べておられるのです。
ヨハネ以前に現れた預言者は皆、やがて神から遣わされた救い主がイスラエルに興されるという神の救いの預言を人々に語りましたが、しかし預言の成就を自らの目で見ることが出来た者はいませんでした。
しかし洗礼者ヨハネは、救い主その人が現れる道備えをする役目を与えられた者であり、自らが預言した救い主の到来を、その目で見て確かめることが出来たのであり、その意味においてヨハネは、以前の預言者たちが手にすることが出来なかった大きな恵みを頂くことが出来たのです。
Ⅱ:ヨハネよりも偉大な者
ところが、続く11節後半でイエスは、「天の国の民」すなわち洗礼者ヨハネ以降、イエスを信じて救われたキリスト者を指して、その最も小さな者であっても、洗礼者ヨハネよりもその人の方が偉大である、と述べています。
しかし、この言葉もまた、キリスト者一人一人が正しさや信仰深さにおいてヨハネよりも勝っていると言っているのではありません。私たちキリスト者が洗礼者ヨハネよりも偉大であると言われる理由は、私たちが受けた恵みの大きさが、洗礼者ヨハネや彼以前の預言者たちよりも勝っているからです。
私たちキリスト者は、キリストの十字架と復活という、洗礼者ヨハネがついに見ることが出来なかった救いの完成をその目で見て、あるいはその福音を知らせを聞いて、イエスを信じるという恵みに与ったのです。そしてそのキリストの死と甦りを宣べ伝えるというより使命な使命を与えられているのです。その恵みの大きさと役割の重要性の故に、キリスト者の最も小さな者であっても、洗礼者ヨハネよりも偉大であると言われているのです。
Ⅲ:「預言の時代」から「成就の時代」へ
洗礼者ヨハネが世に現れて以降、この世界は大きく様変わりしました。12節の御言葉は、新約聖書の中でも、特に解釈が難しい言葉の一つです。そこでこの言葉について、大きく分けて二つの理解が提案されてきました。
一つはこの言葉を否定的に捉えて、洗礼者ヨハネの登場以降、天の国は、世の悪しき者たちの迫害や攻撃に晒されていると理解する立場です。
それに対する第二の見解は、このイエスの言葉をより肯定的に理解して、洗礼者ヨハネの出現以降、力づくで奪うように熱心に、天の国に入ろうとする者たちが現れている、と理解する立場です。特に宗教改革者と呼ばれる人たちは、この二番目の解釈を支持しました。
この二つの解釈のどちらが正しいかを判断するのは大変難しいですが、しかしあえてどちらか一方に限定しなくとも、良いかも知れません。ヨハネの登場以降、ある人々はヨハネやイエスの教えに反対し、天の国の民に激しい迫害を加えている一方で、この天の国を求めて、熱心に、情熱的に生きる信仰者もまた確かに現れています。
そして「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」と述べている通りに、この洗礼者ヨハネを境にして、神の救いの約束を待ち望む『預言の時代』から、その「預言の成就の時代」へと突入することになったのです。その「預言の時代」の終りと、「成就の時代」の始まりを人々に告げ知らせる使者として、先程のマラキ書に預言されている「預言者エリヤ」として現れた人物こそ洗礼者ヨハネであるとイエスは結論付けておられます。
Ⅳ:笛吹けど踊らず
そしてもしそうであれば、人々の取るべき態度は、その約束のエリヤであるヨハネの「悔い改めよ」という言葉に真剣に耳を傾けて、自らの罪を悔い改めるということであったはずです。
ところが、洗礼者ヨハネやイエスと同じ時代を生きていた多くの人々が示した反応は、それとは全く正反対の態度でした。洗礼者ヨハネが荒れ野で禁欲的な生活を守り、人々に罪の悔い改めを説いても、反対にイエスが罪人や徴税人と共に食事をして、彼らに罪の赦しを語っても、人々は理由を付けてどちらも受け入れようとはしなかったのです。彼らはどこまでも、自分たちの聖書の理解やそこから来る正しさに固執して、自分の考えや願いとは異なる教えは決して認めようとしませんでした。今の自分の生活や態度は何も変えようとせず、自分にとって都合の良い教えだけを受け入れようとする、これがイエスが生きておられた時代の人々のあり方でした。
Ⅳ:自分を打ち砕かれて、主に従う
確かに聖書の中から自分が聞きやすい言葉、自分の思いや状況に合う言葉だけを選んでいけば、私たちは今の自分のあり方や生活を何も変える必要はありません。ですからその信仰生活はある意味で何の葛藤もなく、居心地の良いものになるかも知れません。しかし、御言葉を聞いても私自身が何も変らないとしたら、それは本当に御言葉を「聞いた」と言えるでしょうか。むしろ自らの現状とは相容れない様な聖書の御言葉に出会った時に、その御言葉によって自分自身を打ち砕かれて、自分を捨てて主に従うということ、それこそが本当に御言葉を「聞く」ということであり、「自分の十字架を背負って主に従う」という事なのです。
聖書は、私たちにとって単に「良い話」「ためになる話」が書かれているのではありません。神の言葉は、それが正しく語られて、そしてそれが正しく聞かれる時に、それを聞く者は「古い自分」を打ち砕かれて、その生き方を変えさせる力を持っているのです。
そして私たちは確かに、この聖書の御言葉によって自分自身を打ち砕かれて、それまでの古い自分を脱ぎ捨てて、イエスを主と信じて信仰者となったのです。その私たちに与えられている計り知れない恵みの大きさの故に、私たちもまた、あの洗礼者ヨハネよりも偉大な者とされているのです。