2022年11月20日 朝の礼拝「神に喜ばれる捧げ物」

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2022年11月20日 朝の礼拝「神に喜ばれる捧げ物」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 4章15節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:15 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
4:16 また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
4:17 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
4:18 わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
4:19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
4:20 わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 4章15節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 この手紙の宛先であるフィリピ教会は、パウロの働きを特に経済的な面でずっと支え続けてきた教会でした。そして、捕らえられて牢獄に繋がれているパウロの元に、エパフロディトという信者がフィリピ教会からの贈り物を携えてパウロの元を訪れました。パウロがこの手紙を書いた大きな理由の一つが、フィリピ教会の贈り物に対して感謝を伝えることでした。もし私たちが何か贈り物を受け取って、それに対して感謝の手紙を書くとしたら、何をおいてもまず最初に「感謝の言葉」を書くはずです。ところがパウロは、この手紙の最後の挨拶の部分に差し掛かるところでようやく、フィリピ教会からの献金について触れています。しかもその時もパウロは「献金をありがとうございます」とか「尊い捧げ物に感謝します」というような言葉は一言も述べません。しかもここでパウロが記している「あらゆるものを受け取りました」という言葉は商業用語で、そのまま素直に翻訳すれば「全額確かに領収いたしました」という事務的な文章になるのです。
 
 パウロがここでフィリピの教会の捧げた献金について、ことさらに事務的な対応をしようとしているのは、フィリピの人々がただパウロとの関係においてそれを理解するのではなく、むしろそれを神との関係において捉えて、神に目を向けることが出来るようにと考えたからです。
 確かにフィリピ教会の捧げ物は、直接的にはパウロの宣教の働きを援助して、パウロの必要を満たすために捧げられたものです。しかし彼らは決して、パウロのスポンサーでもパトロンでもありません。その贈り物は、パウロを通して行われる神の福音の働きのために捧げられたのであって、それはすなわち神に対して捧げられた捧げ物なのです。これがパウロの献金に対する理解です。ですから神に対して捧げられた献金に対して、パウロ自身が御礼を述べたり、感謝の言葉を記したりすれば、それはかえってそれがパウロ個人に対するものであるような誤解を与えてしまうかも知れません。そこでパウロは、この手紙の中でフィリピ教会に対する自らの感謝の言葉を述べることはせず、商取引で用いられる用語を多く用いて、その献金がパウロ個人に対する捧げ物ではなく、あくまで神に対して捧げられた「捧げ物」であることをはっきりと示すのです。

 パウロは17節で、フィリピの人々が捧げた贈り物に対しては、神が「キリストによる義の実」を「利子」として振り込んでくださるのだ、と述べています。
 フィリピ教会は決して裕福な教会ではなく、彼ら自身小さな群れでした。そういう貧しい人たちが、自分の持っている僅かなものを誰かのために差し出すということは、人間の損得勘定で言えばこれは明らかに「損」となります。ところがそのように人間同士のやり取りにおいては「損」であるはずの彼らの捧げ物が、神との関係においては「愛や喜び」「正義と真実」という「利子」を(実りを)教会にもたらすのです。だから損得勘定においてフィリピの人々は実は「得」をしているのだ、とパウロは述べているのです。
 そのようにしてパウロは、フィリピの人々の眼をパウロ個人にではなくて、天におられる神に向けさせることで、献金とはあくまでその神との関係において捧げられるものであるということを明らかにしています。

 それは、今私たちが献金を捧げてもらったときに、それに対して感謝を表すのが間違いであるということではもちろんありません。しかし一方で、教会で捧げられる献金は人間同士の間でやり取りされる善意の募金とは本質的に異なります。教会で捧げられる献金は、神との関係において信仰者が捧げる「神に対する捧げ物」であるという事がその本質にあります。それは奉仕の働きについても同様です。奉仕は単なる善意のボランティアではなくて、私たちの持っている時間や賜物を神のために使う「捧げ物」なのです。

 しかし、それらの捧げ物は自分が救われるために神に捧げるのではなく、旧約のいけにえのように、私たちの罪の償いのために捧げるものでもありません。なぜなら私たちは主イエス・キリストに結ばれていて、私たちの罪はこの主イエスによって贖われているからです。私たちの救いはただ神の無償の憐みと恵みであって、その神に対する私たちの捧げ物はどこまでいっても、主イエスにあって私たちを満たしてくださっている神に対する感謝のしるしとして捧げる「感謝の捧げ物」なのです。そしてその感謝の捧げ物に対して、さらに神は豊かな実を教会に与えて報いてくださるとパウロは述べているのです。
 主イエス・キリストというお方を与えられて、このお方によって永遠の命を約束されている私たちが、その恵みに感謝を持って捧げる僅かな捧げ物に対しても、神はさらに豊かな実りを与えて答えてくださるのです。そうであれば、神との関係において私たちの貸し借り勘定は決して「損」になることはありません。そしてこの主イエス・キリストに結びあわされて、罪人の私が神様の救いの恵みに与っていることに感謝して生きる時に、更に私たちはキリストから義の実「愛、喜び、平和」を与えられて、私たちをますます豊かに満たして下さるのです。

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