2022年11月27日 朝の礼拝「すべての聖なる者たちへ」

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2022年11月27日 朝の礼拝「すべての聖なる者たちへ」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 4章21節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:21 キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。
4:22 すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。
4:23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 4章21節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロはこの手紙の最初の挨拶のところで「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれている聖なる者たち、ならびに監督と奉仕者たちへ」と呼びかけていました。そして手紙の終りにあたってもう一度パウロは、「すべての聖なる者たちへ」と呼び掛けています 
 更に手紙の差出人であるパウロ自身と、彼と共にいる同労者や兄弟姉妹を含めた「すべての聖なる者たちからよろしくと言っています」と記して、最後の挨拶を述べています。

 「聖なる者たち」という言葉は、パウロが教会の信徒たちをに対してよく用いる言葉です。多くの英語の聖書では、この言葉を「Saint(聖人)」と訳しています。しかし、この手紙の宛先であるフィリピの教会の中にも、そしてパウロの仲間の中にも「キリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した高潔な信仰者」という意味における「聖なる者」は一人もいませんでした。パウロ自身も、ローマ書7章24節では「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と述べています。
 妬み、争い、恐れ、無知、そのような弱さと欠けに満ちた人間の集まり、それがフィリピの教会の姿でありました。そしてまたそれは私たち地上の教会の姿でもあります。けれどもパウロはそのような、多くの問題を抱えている教会を指さして「聖なる者たちよ」と呼びかけるのです。
 パウロにとって「聖なる者」とは、人よりも徳が高いとか、立派な働きをした事によって認められる呼び名ではありません。それは、ただイエス・キリストを神の御子と信じて、このキリストに結びあわされている人のことを指しています。
 フィリピ教会も、あるいは問題だらけのコリント教会も皆、このキリストに結びあわされて、キリストにあってこの世から取り分けられた天の国の民の群れであって、その意味で彼らは「聖なる者」と呼ばれる資格が確かにあるのです。

 パウロが様々な問題を抱えていた教会を「キリスト・イエスに結びあわされた聖なる者たち」と呼んだように、神は、イエス・キリストというお方に結びあわされている私たちを、「聖なる者」と呼んでくださるのです。それは私たちの中身がもうすでに完全になって、罪を犯さない聖人になったということではもちろんありません。神は、私たちが完全で正しい人間になったからではなく、ただ一人聖なるお方であるイエス・キリストに結ばれているから、私たち罪深い者を今、「すべての聖なる者たちよ」と呼んでくださるのです。私たちは、このキリストに結ばれて「聖なる者」とされている自分を知った時に、本当の意味でありのままの自分を受け入れることができるようになるし、自分以外の他者をも、主イエスに結びあわされた聖なる者として愛することが出来るようになるのです。

 この手紙の終りにパウロは「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」という言葉を記しています。これは、言葉は短く短縮されていますが、しかしそこで言っている内容は、私たちの礼拝の最後に祈られる祝福の祈り、祝祷の言葉と同じです。ここでいう「霊」とは「聖霊」のことではなく、私たち一人一人の魂、すなわち私たちの存在全体のことを指しています。 
 パウロはこの手紙の中で何度も「主にあって喜びなさい」と呼び掛けました。しかしその事は、私たちキリスト者はたとえ何があっても、どんな辛い悲しいことがあってもいつもニコニコ笑って喜んでいなければならないという事ではありません。そんなことは人間にできるはずがありません。けれども、たとえ今、私たちは苦しみや悲しみのただ中にあるのだとしても、しかしその私たちの心も体も、言葉も思いも、そして私たちが抱えている罪も弱さも傷も、何もかもを覆い尽くして満たしてくださる、主イエス・キリストに結びあわされて、その尽きることのない愛がいつも私たちと共にあるのです。この大きな喜びの中に、パウロもフィリピ教会の人々も生きていました。そして、今ここに集められている私たちも、このキリストにある喜びを今確かに与えられているのです。
 私たちは礼拝を通して御言葉を聞き、聖徒たちの交わりを与えられ、祝福の祈りをもって世に送り出されていくときに、この弱く小さな私もまた、キリストに結び合わされている聖なる者の一人であることを確信することが出来るのです。そして私たちは、この聖徒の交わりを通して、失われることのない主イエス・キリストの愛と慈しみを思い起こして、そしてこの主にあっていつも喜んで生きる道へと誘われていることを今朝改めて心に刻み、フィリピの信徒への手紙の学びを閉じたいと思います。

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