Ⅰ:洗礼者ヨハネの問いかけ
イエスは、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない・・・」と述べておられましたが、しかしそれはイエス御自身が意図的に争いの種をまき散らすということではありません。それは一言で言えば、このイエスという一人の人を巡って、人々の評価や意見が様々に分かれるということです。実際、イエスと同じ時代を生きた多くの人々が「イエスとは何者なのか」という問いを抱き、直接的、または間接的にそのことを尋ねたのです。
今日お読みした11章冒頭では、あの洗礼者ヨハネもまたこの問いをイエスに投げかけています。この時洗礼者ヨハネは、時のガリラヤ領主ヘロデに捕らえられ、牢の中に入れられていましたが、そのヨハネの許に、ガリラヤで「イエスがなさった」ことについて知らせが届きました。すると、ヨハネは、自分の弟子たちをイエスのもとに遣わして、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせました。しかし3章ではヨハネ自身が人々に対して、自分の後に現れるイエスこそが、聖書に約束されているメシアであるとはっきりと説いていたのに、なぜ改めて「あなたが本当にメシアでしょうか」と尋ねるのは、どこか不自然です。
Ⅱ:現実と理想が違う時
そこである人たちは、ヨハネがこのようにイエスに尋ねたのは、彼自身のイエスに対する信仰の確信が揺らいだのではなくて、弟子たちのためにに、彼らをイエスの下に遣わして質問させ、イエスこそが旧約聖書が預言していた「救い主」であるということを理解させようとしたと理解しました。しかし、恐らくはここでヨハネ自身の心の内に「イエスがメシアである」という事について、ある疑いの念が生じたのではないでしょうか。そしてその疑いは、彼が自らの使命を真剣に捉えて、そのために自らの生涯を捧げてきたからこそ抱いた思いだったのではないでしょうか。ですから、この洗礼者ヨハネの信仰の揺らぎは、私たちキリスト者にとっても決して無縁なものではありません。
では、洗礼者ヨハネはなぜこの時、「イエスは救い主である」という確信が揺らいだのでしょうか。その理由は恐らく、洗礼者ヨハネ自身が思い描いていた「メシア像」と、イエスが実際に人々の間で行っておられた事の間に「ズレ」があったからではないでしょうか。それでは、そのヨハネが思い描いていたメシアの姿とは、どのようなものだったのでしょうか。その事は、先程のマタイ3章で彼自身がメシアについて人々に語った言葉の中によく表れています。彼が思い描いていたメシアは、この世に神の正義を実現して、世の罪人を一掃して厳しい裁きを下す「裁き主」でした。それは確かに、領主ヘロデ相手でも忖度なしに、真正面から彼の律法違反を批判した、ヨハネらしいメシア像ではあります。ところがイエスは、そういう「裁きのメシア」とは全く正反対の働きをされていました。イエスは、ユダヤ人の解放運動や律法学者らとの宗教論争には関心を示されず、むしろ指導者たちが目を向けようとしなかった貧しい人々や病人に目を向けられました。あるいは、敬虔なユダヤ教徒からは汚れた者とされていた徴税人や罪人と交流を持ち、彼らと共に食事をしました。しかしそういうイエスの働きは、洗礼者ヨハネの目にはメシアの働きとして相応しくないものとして映ったのです。
私たちもまた、聖書の御言葉を通して皆それぞれに「キリストはこうあるべきである」という「理想像」を持っています。そして、私たちが現実の中で示されるキリストの姿が、その自分の理想と大きく異なる時に、私たちの心にも「果たしてイエスは本当に救い主なのか」という疑いの心が生まれます。
Ⅲ:御言葉に立ち帰る
では、その問いに対して、イエスは何とお答えになられたでしょうか。4節でイエスは、洗礼者ヨハネの問いに「そうだ」とも「違う」とも明言しておられません。その代わりにイエスは、ヨハネの弟子たちに、あなたがたが見聞きした事、「…目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」という事をそのままヨハネに伝えなさいと命じています。前半の癒しの奇跡は、イザヤ書35章の預言の引用であり、イエスはここで、自らの働きが旧約の預言の成就であることを示して、ヨハネにもう一度その聖書の御言葉に立ち返るように教えられたのです。
私たちの目の前の現実と理想が異なり、「イエスが救い主である」という確信が揺らぐ時に、私たちは一体どうすれば再び信仰の確信を取り戻す事が出来るのでしょうか。それは、ただ聖書の御言葉に立ち返り、真剣に聞き続けることによってしか得られないということをイエスはここでお示しになったのではないでしょうか。私たちが、イエスに対して躓きを覚えたなら、その躓きを乗り越える方法はそのイエスにもう一度真剣に目を向けるということしかありません。キリストに躓いたものは、キリストにおいてしかその解決の道を見出すことは出来ないのです。
Ⅳ:キリストに躓かない者は幸い
最後にイエスは、「私につまづかない者は幸いである」と語られました。 洗礼者ヨハネは、この「つまづき」の危険の中にいました。しかし、「わたしにつまずかない人は幸いである」というイエスのみ言葉によって、彼は信仰の躓きを乗り越え、イエスこそメシアであるという信仰を持ち続けました。そして「キリストに躓かなかった幸いな者」として地上の生涯を終えたのです。私たちはキリストへの信仰に真剣に生きようとする時に、聖書の御言葉と異なる目の前の現実に圧倒されて、キリストに躓く危機に陥ることがあります。その時に、聖書の御言葉に立ち帰って、そこの示されているキリストの本当の姿、―貧しい者を助け、痛む者を癒し、弱い者の足を支え、死者を甦らせて下さる―、そのまことの福音を聖霊によって示されるなら、私たちもまたキリストに躓かなかった幸いな者として、この信仰の生涯を生きることが出来るのです。そしてその地上の生涯の終わりの時、天の御国の門をくぐりながら、「私に躓かなかった幸いな者よ、おめでとう」という、キリストの祝福の言葉を聞くことが出来るのです。