Ⅰ:日常において問われる信仰
15章の終りで、イスラエルの民はエリムという場所で豊かなオアシスを見つけて、そこに宿営しました。エジプトを出て以来初めて、彼らは休息することが出来る場所を見つけたのです。しかし、どんなに豊かでも、そこは本来の目的地ではありませんから、いつまでもそこに留まっている訳にはいきません。エジプトを脱出してから約一カ月が過ぎた頃、民は再び重い腰を挙げて、荒れ野へと進んでいったのです。しかしその途端、イスラエルの民はモーセとアロンに対して不平を述べ始めます。しかも3節でイスラエルの民は、あの出エジプトに際して神が行われた救いの御業をすべて否定して、こんなことなら救い出してもらわない方が良かったとさえ述べているのです。
これとよく似た言葉は、すでに14章11節以下でも民の口から出てきていました。その時神は、海を真っ二つに分けてイスラエルの民を救い出すという奇跡を行われましたが、その非日常的な救いを体験した後で、「飲み水がない」「食べ物がない」という「日常的な問題」に遭遇した時に、民は再びモーセとアロンに(そして神に)不平をつぶやいたのです。
Ⅱ:天からのマナ
では、その民の不平に対して、神は何と答えられたでしょうか。
4節で神は、人々を養うために天からパンを降らせる、とお答えになりました。これが、聖書にたびたび登場する「マナ」と呼ばれる食物です。マナについては、14節、21節、31節で説明されていますが、これを読んでもマナの正体が何なのかはさっぱりわからりません。しかし現代の多くの研究者は、この「天からのマナ」の正体をシナイ半島に生息するある昆虫が輩出する分泌物であると考えています。神が天から与えると言われた「パン」の正体が虫の分泌物であると言われるとがっかりされる方もおられるかも知れません。確かに今日の箇所の奇跡は、ウズラにしろマナにしろ、そういう自然現象によってある説明をすることが可能です。しかし仮にこのマナの正体が、そのような自然現象であったとしても、このマナが、神が荒れ野で民に与えられた天からのパンである、という聖書の言葉が嘘になる訳ではありません。むしろ、神がここで「天から本物のパンが雨のように降ってくる」というような奇跡ではなく、ウズラや昆虫といった自然の被造物を用いたという事の中に、非日常的な事柄だけではなく、日常的なものにも働いておられる神の御手を見ることが出来るのではないでしょうか。それが自然の物であっても、人の手で調理や加工されたものであっても、すべては神が私たちを養うために用意してくださった「天からのパン」に他なりません。
Ⅲ:二日分のパンの約束
神がウズラやマナを与えて民を養われたのは、彼らがそのことを通して「主がエジプトの国から自分たちを導き出された」という神の救いの御業を見つめなおし、「主の栄光を彼らに仰がせる」ためでした(6節)。神は、海を二つに分けるというような日常的な奇跡によってではなく、彼らが日常的に食べる物を与えることを通してご自分の栄光を表されたのです。大切なことは、「食事をする」とか「仕事」や「勉強」といった普通の営みの中で、神の御業を体験し、神に信頼するということなのです。そして日常の中で神に信頼する信仰が試されるのが、主の日の礼拝を守るという事なのです。
今日の箇所で神が与えられたマナは、その日一日しか置いておくことが出来ず、翌日になると食べられなくなってしまいました。ところが、神は六日目には、いつもの二倍の量のマナを得ることが出来、しかもそれは翌日まで置いておいても虫が付いたり、臭くなったりしなかったのです。
仕事のこと、生活の糧を得ること、子育てや家族の介護…、そういう私たちの普段の日常における事柄も神の御手にあります。そして、私たちが主の安息を守ることでそれらの問題が損なわれることがないように、神は六日目に二日分のパンを用意していてくださるのです。安息日の規定を守るということは、この「神は六日目には、二日分のパンを与えてくださる」という約束に信頼することです。
Ⅳ:まことの命のパンを受ける場所
ですから神が「安息日を守れ」と言われるのは、、単に私たちを縛り付けるためではなく、この主の日の安息を守る生活においてこそ、私たちはまことの天からの命のパンを頂いて霊的な養いを得ることが出来るからです。私たちは主の日の礼拝よりも仕事や人間的な快楽を優先すれば、この世的には得をすることがあるかも知れません。しかし、今日の箇所で七日目にマナを探しに出掛けて行った者たちが、結局そこでは何も見つけることが出来なかったように、主の日に礼拝以外の場所に出かけて行っても、そこではこの本当に私たちが生きるために必要な、まことの命のパンを見つけることは出来ないのです。神の民のために天から降られたまことの命のパンとは、人となられた神の御子であるイエス・キリストのことです。
この世のパンは、一時的にしか私たちの空腹を満たすことが出来ませんが、天から降られた真のマナであるイエス・キリストは、私たちに永遠の喜び、永遠の幸福、永遠の命を与えることが出来ます。この世でどんな報酬を得るとしても、このまことの命のパンを受け取ることが出来ないのなら、その努力は虚しい徒労に終わるのです。そしてこの命のパンであるイエス・キリストに出会える場所は、別のどこかではなく、この礼拝の場所なのです。「安息日を守れ」という神の命令は、この豊かな恵みへと私たちを招待する喜びの知らせです。
主が今日も、私たちをこの主の日の礼拝へと招いてくださり、私たちに本物の命のパン、永遠の命を与えてくださった幸いを覚えて、力の限り、感謝と賛美を捧げようではありませんか。