2024年07月28日 朝の礼拝「天から降るパン」

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2024年07月28日 朝の礼拝「天から降るパン」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 16章1節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:1 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。
16:2 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。
16:3 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
16:4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。
16:5 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
16:6 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、
16:7 朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
16:8 モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
16:9 モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、
16:10 アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。
16:11 主はモーセに仰せになった。
16:12 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
16:13 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。
16:14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。
16:15 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。
16:16 主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
16:17 イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。
16:18 しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。
16:19 モーセは彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、
16:20 彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。
16:21 そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。
16:22 六日目になると、彼らは二倍の量、一人当たり二オメルのパンを集めた。共同体の代表者は皆でモーセのもとに来て、そのことを報告した。
16:23 モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」
16:24 彼らはモーセの命じたとおり、朝まで残しておいたが、臭くならず、虫も付かなかった。
16:25 モーセは言った。「今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう。
16:26 あなたたちは六日間集めた。七日目は安息日だから野には何もないであろう。」
16:27 七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。
16:28 主はモーセに言われた。「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。
16:29 よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。」
16:30 民はこうして、七日目に休んだ。
16:31 イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。
16:32 モーセは言った。「主が命じられたことは次のことである。『その中から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである。』」
16:33 モーセがアロンに、「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」と言うと、
16:34 アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。
16:35 イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。
16:36 一オメルは十分の一エファである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 16章1節~36節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:日常において問われる信仰
 15章の終りで、イスラエルの民はエリムという場所で豊かなオアシスを見つけて、そこに宿営しました。エジプトを出て以来初めて、彼らは休息することが出来る場所を見つけたのです。しかし、どんなに豊かでも、そこは本来の目的地ではありませんから、いつまでもそこに留まっている訳にはいきません。エジプトを脱出してから約一カ月が過ぎた頃、民は再び重い腰を挙げて、荒れ野へと進んでいったのです。しかしその途端、イスラエルの民はモーセとアロンに対して不平を述べ始めます。しかも3節でイスラエルの民は、あの出エジプトに際して神が行われた救いの御業をすべて否定して、こんなことなら救い出してもらわない方が良かったとさえ述べているのです。
 これとよく似た言葉は、すでに14章11節以下でも民の口から出てきていました。その時神は、海を真っ二つに分けてイスラエルの民を救い出すという奇跡を行われましたが、その非日常的な救いを体験した後で、「飲み水がない」「食べ物がない」という「日常的な問題」に遭遇した時に、民は再びモーセとアロンに(そして神に)不平をつぶやいたのです。

Ⅱ:天からのマナ
 では、その民の不平に対して、神は何と答えられたでしょうか。
 4節で神は、人々を養うために天からパンを降らせる、とお答えになりました。これが、聖書にたびたび登場する「マナ」と呼ばれる食物です。マナについては、14節、21節、31節で説明されていますが、これを読んでもマナの正体が何なのかはさっぱりわからりません。しかし現代の多くの研究者は、この「天からのマナ」の正体をシナイ半島に生息するある昆虫が輩出する分泌物であると考えています。神が天から与えると言われた「パン」の正体が虫の分泌物であると言われるとがっかりされる方もおられるかも知れません。確かに今日の箇所の奇跡は、ウズラにしろマナにしろ、そういう自然現象によってある説明をすることが可能です。しかし仮にこのマナの正体が、そのような自然現象であったとしても、このマナが、神が荒れ野で民に与えられた天からのパンである、という聖書の言葉が嘘になる訳ではありません。むしろ、神がここで「天から本物のパンが雨のように降ってくる」というような奇跡ではなく、ウズラや昆虫といった自然の被造物を用いたという事の中に、非日常的な事柄だけではなく、日常的なものにも働いておられる神の御手を見ることが出来るのではないでしょうか。それが自然の物であっても、人の手で調理や加工されたものであっても、すべては神が私たちを養うために用意してくださった「天からのパン」に他なりません。

Ⅲ:二日分のパンの約束
 神がウズラやマナを与えて民を養われたのは、彼らがそのことを通して「主がエジプトの国から自分たちを導き出された」という神の救いの御業を見つめなおし、「主の栄光を彼らに仰がせる」ためでした(6節)。神は、海を二つに分けるというような日常的な奇跡によってではなく、彼らが日常的に食べる物を与えることを通してご自分の栄光を表されたのです。大切なことは、「食事をする」とか「仕事」や「勉強」といった普通の営みの中で、神の御業を体験し、神に信頼するということなのです。そして日常の中で神に信頼する信仰が試されるのが、主の日の礼拝を守るという事なのです。 
 今日の箇所で神が与えられたマナは、その日一日しか置いておくことが出来ず、翌日になると食べられなくなってしまいました。ところが、神は六日目には、いつもの二倍の量のマナを得ることが出来、しかもそれは翌日まで置いておいても虫が付いたり、臭くなったりしなかったのです。
 仕事のこと、生活の糧を得ること、子育てや家族の介護…、そういう私たちの普段の日常における事柄も神の御手にあります。そして、私たちが主の安息を守ることでそれらの問題が損なわれることがないように、神は六日目に二日分のパンを用意していてくださるのです。安息日の規定を守るということは、この「神は六日目には、二日分のパンを与えてくださる」という約束に信頼することです。

Ⅳ:まことの命のパンを受ける場所
 ですから神が「安息日を守れ」と言われるのは、、単に私たちを縛り付けるためではなく、この主の日の安息を守る生活においてこそ、私たちはまことの天からの命のパンを頂いて霊的な養いを得ることが出来るからです。私たちは主の日の礼拝よりも仕事や人間的な快楽を優先すれば、この世的には得をすることがあるかも知れません。しかし、今日の箇所で七日目にマナを探しに出掛けて行った者たちが、結局そこでは何も見つけることが出来なかったように、主の日に礼拝以外の場所に出かけて行っても、そこではこの本当に私たちが生きるために必要な、まことの命のパンを見つけることは出来ないのです。神の民のために天から降られたまことの命のパンとは、人となられた神の御子であるイエス・キリストのことです。
 この世のパンは、一時的にしか私たちの空腹を満たすことが出来ませんが、天から降られた真のマナであるイエス・キリストは、私たちに永遠の喜び、永遠の幸福、永遠の命を与えることが出来ます。この世でどんな報酬を得るとしても、このまことの命のパンを受け取ることが出来ないのなら、その努力は虚しい徒労に終わるのです。そしてこの命のパンであるイエス・キリストに出会える場所は、別のどこかではなく、この礼拝の場所なのです。「安息日を守れ」という神の命令は、この豊かな恵みへと私たちを招待する喜びの知らせです。 
 主が今日も、私たちをこの主の日の礼拝へと招いてくださり、私たちに本物の命のパン、永遠の命を与えてくださった幸いを覚えて、力の限り、感謝と賛美を捧げようではありませんか。

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