Ⅰ:キリストの弟子となる恵み
40節でイエスは、弟子たちとご自分を、そして天の神をイコールで結んで、弟子たちを受け入れるということは、自分や神を受け入れることに等しいと述べておられます。「全権大使」という言葉を聞かれたことがあるでしょうか。全権大使は、国を代表して外国に派遣されて、そこで条約に署名や調印をする権限も与えられている外交官の最高位です。ですから「使徒(遣わされた者)」は、その神の国の全権大使として世に遣わされていくのです。弟子を受け入れる者は、彼らを遣わしたキリストと、そのキリストを遣わされた神を受け入れるのであって、ですから続く42節でも「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」と約束されています。
中東のパレスチナにおいて、旅人に冷たい水一杯を提供するということは、当然なすべき最低限の善意の行為であり、本来はそのことで誉められたり、報いを受けるようなことはありません。しかしそのような取るに足らない愛の行為であったとしても、その人が「キリストの弟子である」という理由で行ったなら、その事は神の御前に覚えられており、神自らがその行為に報いてくださるのです。そしてキリストの弟子とされた者には、このような大きな権威と力が託されているのです。
よく、日本のキリスト者の数は、総人口の1%以下であるという風に言われますように、私たちは、数で言えば全く取るに足らない、小さな存在です。しかし、そのような小さな存在であるキリスト者に委ねられている権威と力は、この世の中で他に類を見ないような大きな力を持っているのです。
今日の箇所で直接的に述べられているのは弟子たちを受け入れる第三者に対する恵みについてですが、しかしそれらを通してイエスは、キリストの弟子と呼ばれることが、どれ程素晴らしい恵みであるかを語って励ましておられるのです。
Ⅱ:小さな者に委ねられた福音
しかし、そのような権威を私たちに与えられているのは、私たち自身の正しさや優秀さによるのではありません。42節でイエスは、弟子たちを「この小さな者の一人」と呼んでおられます。人々が小さな者である弟子たちを受け入れるのは、弟子自身に尊敬に値する何かがあるからではなく、それはただ「キリストの弟子」という名前によるのです。ですからその権威は、そもそも私たちが自分勝手にそれを用いることは許されません。私たちはあくまで神の平和の福音を告げ知らせて、恵みと祝福をもたらすために遣わされているのです。
神はこの素晴らしい平和の福音を、人間的に優れた者やこの世の知恵に富んでいる者たちではなくて、私たちのような知恵も力もない「小さな者」に委ねてくださったのです。世の苦しんでいる魂に、まことの命と幸福をもたらす働きが、この小さな者に委ねられているということは、本当に大きな恵みなのではないでしょうか。福音伝道は、私たちに課せられた義務ではなく、この取るに足らない小さな私を用いて命の福音を隣人に届けてくださる神の恵みの業なのです。
Ⅲ:小さな者として遣わされる
もし私たちが小さな者となって、誰かの助けや施しを受けなければ、その人は私たちを通して神からの報いを受け取る機会を失ってしまいます。私たちは、自分が弱くて無力な「小さな者」であるということを率直に認めて、誰かが差し出してくれる小さな愛の働きを素直に受け取る事によっても、他者に神の報いをもたらす働きが出来るのです。そして、私たちが「小さな者」でなければならない最大の理由は、私たちにこの権威を与えられたキリストご自身が、この世においては全く弱くて無力な「小さな者」として生きられたお方だからです。イエス・キリストこそ、ご自分を全く低くされて、最も「小さな者」となって、地上の生涯を終えられたお方です。
では私たちは、その最も「小さな者」となられたイエス・キリストに対して、何か報いを受けるに値するようなことが出来たでしょうか。そのような、全く神の報いを受けるに値しない、むしろ呪いと裁きを受けるのが当然であるはずの私たちを、キリストはあの十字架で、ご自分の者として受け入れて下さったのです。だからこそ、私たちは今、自分がしたこととは全く不釣り合いな報いを受けて、キリストの弟子としてここにいて、永遠の命を約束されているのです。キリストの弟子として生きるという事は、このキリストの愛と憐みを生きるという事です。そして伝道とは、この福音を隣人に告げ知らせる、喜びと栄誉に満ちた働きなのです。